自分はどうなってもいい、とはならない。 自分の親と先祖の、自分への想いにこたえて、自分も幸せでいること。 若者なら謳歌し、大人なら与えて受け止める母性と偉大さを育てて、自分という存在の最善をまっとうすること。 生まれてよかったと感謝できるのは、それをまっとうできる機会を与えてもらえて、それを実際にチャレンジすること。
月別: 2018年2月
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つもり貯金は、想像の中でさえも、それについて最善の全霊を尽くすこと。
つもり貯金は、想像の中でさえも、それについて最善の全霊を尽くすこと。 それについて偉大さを讃えること。 そしてそれを可能たかしめる世界にそれを任せること。 そうでなければ未練が残り、実際に手を出すことを選ぶ。 想像によって事の顛末までを見て、世界の果てまで届く想いが、放たれる。 それは花の香りのように。 それに嫉妬する者は、想像にすぎない幻想だと言うだろうが、この世界自体が幻想のひとときである。 忌み嫌う呪いではなく、偉大な創造のあらわれである。 それを讃えるのが、つもり貯金。 そして、それでもなお、あまるほどのものであれば、私にも実際に味わうときもあるのだろう、そんな微笑ましく見守る目線がそこにある。
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他人を憐れむのは、その他人を助ける暇がありながら、何もしないこと。
他人を憐れむのは、その他人を助ける暇がありながら、何もしないこと。 自分を憐れむのも、同じこと。 力を出さずに怠慢でいること。
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良心による引き際を、諦めが早すぎると言うのは、良心を忘れたのである。
良心による引き際を、諦めが早すぎると言うのは、良心を忘れたのである。
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日々この世で悪徳を手放してゆき去る身なら、日々その悪徳を批判することも一緒に手放していくとよい。
日々この世で悪徳を手放してゆき去る身なら、日々その悪徳を批判することも一緒に手放していくとよい。 手中に入れたり、どこかへ残して留まらせずに昇華するとよい。
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修行者の道と見せかけて、実はそうではないものがある。
修行者の道と見せかけて、実はそうではないものがある。 それは、家族を養うことを小さく甲斐のない繁栄だと教え、大きな繁栄を目指す夢を自我と欲望と愚かさだと教えること。 家族を捨てて、夢も捨てて、残るものは死を待つことだけ。 あとの全ては、そんな教えを訴える先生がいただく。 だが先生本人は気づかない。 死を待ちながらも、いただいたものによって自分が好きなことを味わうことに忙しい。 そうして自分好みのことばかり話す。 他の事は許さない。 そしてそれが一理あると訴えることに忙しい。 雄弁な者ほど見せかけだ。 一理あろうと、それは立つ側によっていくらでも見方が変わる。 その理の反対者もいるし、どちらの理も共に受け入れる者もいるし、ひたすら理を受け入れない者もいる。 雄弁で正義で完全無欠だと思えることほど、それは際立つ。 雄弁でなくていい、正義でなくとも、完全無欠でなくてもいい。 それが本来であり、それがほんとうの理。 理とは、主張するためのものではない。 理とは、そこにある事実の全てである。
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誰のものでもないものに値段をつけて売ってはならない。
誰のものでもないものに値段をつけて売ってはならない。 それでも伝えたいのなら無償無益の奉仕で行うこと。 それが可能なだけの余力を稼げる必要があること。 さもないとその言葉に善くする現実的な力はなく、奪う力しかない。 人は、非現実的なことに逃避するためには、どんな苦労と浪費も惜しまない。 なぜならそれは現実的な苦労と比べたら好き勝手に遊びまわるよう浪費のようなもの。 そんな売り物を振りまく者は、周囲からの浪費を吸い尽くすだけ。 扱うものが神のように偉大であるほど、あるいは神の名そのものであるほど。
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学んで何をしたいのか。
学んで何をしたいのか。 学んですることは、作り出すこと、助けること、与えること。 世の中のためになること。 作り出し、助け、与えることばかりで学ぶ時間が無いと言うのは、その学ぶ理由と目的が自我だけであり、無意味で不要なこと。
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忙しいと言う時、人はそれを何かと比較して例外的な状況だと感じている。
忙しいと言う時、人はそれを何かと比較して例外的な状況だと感じている。 余分で過剰で無駄で不要だと、内心では知っている。 本来ならそのぶんだけ暇がある。 暇だから言える。 暇だから自分から用事を増やす。 そしてそれを自覚せずにいるから、そうした用事を増やし続けて、そのぶん大切なことを見失う。 ほんとうに必要なら納得の一心不乱にあり、内心にそうした比較は無い。 人と器の大小は関係ない。 人は常に自分という一人分を与えられている。 自覚が大事。
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先生も生徒も完璧ではない。
先生も生徒も完璧ではない。 先生が教え忘れたことを教えたと勘違いして、生徒の不出来を叱りつける。 生徒は完璧になれない自己否定から、先生を絶対視する。 そして生徒は個々の気づきや良心を犠牲にする。 先生はそんな生徒を頼りなく感じ、さらに完璧になろうと慢心になる。 はじめからまちがっている、人は完璧ではない。 それは無理なことばかり実現しようとしている。 そこにお互いの嘘と誤魔化しが増え続け、かつ自分は完璧なはずとお互い嘘に盲目となって自分を騙し合う。 不出来な生徒などいない、先生の慢心に生徒という奴隷が服従しきれないだけ。 実現できない無理なことをしていれば、いつか崩れる。 そしてそれをお互いのせいにするのか? そうではなく、各自が自分を内省するしかない。 だからこそ素直に謙虚に学び成長し、良心で判別し、人生から気づきを得る命を与えられている。 その有り難さと感謝から来る内なる平安に、自己否定も慢心もない。 ほんとうの自信がそこにある。
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仕事も子育ても、問題解決の連続。
仕事も子育ても、問題解決の連続。 不安になるが、飛び込めば一心不乱に最善を尽くすことになる。 そのとき心に曇りはない。 もしあれば、なにひとつ噛み合わず、うまくいかない。 曇りがないとは、あらゆる壁や障害を突破して乗り越えることにある。 不安を乗り越えて飛び込むのが、ひとつ、変化と成長にはつきもの。 そのなかで一心不乱となるのが、ひとつ、逃げても問題は消えない。 さらにそのときも良心を見失わず、最善を考えて実践するのが、ひとつ、盲目になれば惰性になり変化と成長の機会を無駄にして、闇雲に新たな問題を生み出す。 思いつくだけでこの三つの晴らさなくてはならない曇りがある。
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成功者の条件を見て讃える自分は何を知り経験し勤め上げているのか。
成功者の条件を見て讃える自分は何を知り経験し勤め上げているのか。 何故その条件かを正当に判別できるほどなのか。 他者の評価の前に自分を内省せよ。
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瞑想から出てきていつも思ったことは、この平安をどうやって日常に持ち込むかだった。
瞑想から出てきていつも思ったことは、この平安をどうやって日常に持ち込むかだった。 どうしてもできなくて、得られたのは、せいぜい酒を飲んだ時ぐらいだった。 さもなければ、いかに精力的であっても、半分死人のような生き方をするしかない。 するとまず良心が死に始める。 良心は、内なる神と、生きる者とを繋ぐ、唯一の川のようなもの。 だから半分死人になるとは、良心が死に始める。 それを否定するために大きな霊的な権威を求める。 だがどれだけその言葉が完璧でも、行動がともなわない。 あえてやっていると言っても、あえてやる必要などない。 それは、ただ、良心のない行動をしている、それだけであり、特別な意味などない。 瞑想せずともそれを日常で生きる方法がわかった。 それは生かされていることに感謝し、どのような課題であれ愛して最善を尽くすこと。 職業に貴賎をつけないこと、なぜならどの職業も内なる髪を預かる者が生きるためにあるのだから。 権威づけをしないこと、なぜなら最初から神とともにあるのだから。
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風水は、手法によって条件が異なる。
風水は、手法によって条件が異なる。 目的によって異なるのだろうと思われる。 かつ、それは100%でもない。 無理をした風水は持続もできない。 面白いのは、うまくいっている人は自然と良い風水にいる。 うまくいくとは? 子々孫々までも徳分を受け継ぐような結果か。 それとも目先の力の獲得の結果か。 けっきょくたいせつなのは良心。 目的や良心のありかたによって、どの風水で見るかは変わると言える。 それが良いか悪いかも、その人の因果応報でもたらされる。 悪い風水は、無用に悪い出来事を引き寄せるという。 風水の大家でさえ、100%の風水を目指しても、叶うことはない。 自分のためだけにこの世界は無いからだ。 100%と思える風水にいても不幸を生きる者たちもいる。 それを風水の大家は、私のテーマだと言う。 戦の将たちはかつて勝利するため、完璧な風水を目指し、その知識や英知を奪い合った。 相手の風水を悪くしようと企み、多くの血を流させた。 いったいそんな生き方の、なにが、うまくいくというのか。 占星術は、風水と密接な関係にあるという。 星々は神々にたとえられる。 その神々のすべてを理解しきる人間がいるだろうか。 けっきょくは読み手の能力の限界でしかない。 そしてそれを神の声のように受け取り信じることは呪いとなる。 良心の生き方が、その神々への態度となる。 天性の才能と言われた占星術師たちは言う。 今の時点で私に見えて言えることに過ぎない、全てはあなた次第。 ・・・と。 そして長年を占星術に注いだものは、やがて無言になるという。 ただそこに良心をそそぐこと、それは内なる神を宿す者の姿。
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力を求めるものは、小さなことの積み重ねの先にある日々を求め、得られずにいる。
力を求めるものは、小さなことの積み重ねの先にある日々を求め、得られずにいる。 そして小さなことの積み重ねを見下して否定するが、それは嫉妬から来る。