この世で一番強い繋がり、それは愛または洗脳。 どちらも命を投げうつ道となる。 とことん洗脳されれば愛を見失うが、とことん愛で生きれば洗脳は解ける。 依存と献身の違いがここにある。 正しい道も間違った道も、突き詰めれば命が課題となってくる。 命を捨てるのか、命を活かすのか、でもある。
月別: 2018年5月
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理不尽な者は放っておくと良い、いずれ本人の過ちで疲れ、自滅する。
理不尽な者は放っておくと良い、いずれ本人の過ちで疲れ、自滅する。 そのときようやく気づくのだから、黙って自分の最善を尽くすこと。 理不尽であるほど理屈を強要するし、その理屈は間違っている。 だがそれを認めないのだから、理屈で勝てるまで戦い続ける。 だから、独り相撲をさせれば良い。
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いつまでも人を悪く思わないこと、何故ならその人も成長する。
いつまでも人を悪く思わないこと、何故ならその人も成長する。 縁がなく成長を聞く機会がないのなら、知らないだけ。 機会があって知ったとしても悪く思うことは何も産まない。
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良心に気づいてから、良心と自我の正義を混同すれば、どうなるか。
良心に気づいてから、良心と自我の正義を混同すれば、どうなるか。 自我の正義を探求し、良心の探求を見失う道が始まる。
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自分以外の他者を敵味方や店や客やと分けるのは、自分中心にしたいから。
自分以外の他者を敵味方や店や客やと分けるのは、自分中心にしたいから。 自分以外の他者すべてが味方であり客であるように必要に応じて助けて奉仕すること。 自分中心のことに他者を巻き込んではいけない。
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視点を誤れば、それが正しさから来ていても、誤りとなる。
視点を誤れば、それが正しさから来ていても、誤りとなる。 つまり自分は正しくても、それが他に貢献することにならず、力にもならず、奪うのみでしかない。
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現象を見て問題と思ってはならない、それは現象でしかない。
現象を見て問題と思ってはならない、それは現象でしかない。 原因となるものが隠れる時、問題が生まれる。 原因となるものを見えなくなる時、問題が生まれる。 隠す、見えなくする、それは何なのかを探し、見つけること。 罪を悪んで人を悪まず。 何より、人を憎むことこそ、隠し、見えなくすると気づいて、吉となる。
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未熟さは病ではない、人の成長は、薬で抑えつけることではない。
未熟さは病ではない、人の成長や変化そして痛みは、薬で抑えつけることではない。 それは子供の体の成長とも似ている。 成長や変化には痛みがともなうこともある。 免疫、体力、精神、これらは薬では成長しない、抑えつけるだけ。
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敬いのない言葉に正しさは無い。
敬いのない言葉に正しさは無い。 相手が悪いのではない。 まして自分が正しいからではない。 人は皆、悪いところはある。 つらいときほど人は悪い心で物事を見る。 きちんと見ることができない。 相手の悪さを探して指摘して勝ち誇り、馬乗りになって言うことを聞かせたところで、未来はない。
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持ち上げれば、あとは落ちるのみ。
持ち上げれば、あとは落ちるのみ。 慢心からの悪人正機は起こる。 ただ、それが生きているうちかは、わからない。 生きているうちに起こらないのは、守られているから。 それを忘れて感謝しないのが、慢心。 守られるとは他者によって。 持ち上げられるとは、自身の慢心によって。
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試練とは、多くを知り強大となることが目的ではない、それらはいずれ手放すもの。
試練とは、多くを知り強大となることが目的ではない、それらはいずれ手放すもの。 その最中でも心の慈悲、命への敬いを忘れずにいられたか、どこまでもそこを突き通せたか、それだけが持ってゆけるもの。 それが未来というもの。 それを見失ったものが、いくら力や正義を主張しても、聞き入れられることはない。 得てしてそういう者は成長せず、同じことを繰り返すもの。 それで得た知や力は、儚いものであり、それがなんになるというのか。 それがなくとも生きていくことはできるのに。 己の気づきは己のためにあり、他者を屈服させるためにはない。 他者もまた気づいてゆく存在であり、お互いに静かに敬うこと。 それが共に生きる道である。 人は助け合って生きなければ、生きてはゆけない。 自分がいかに知と力を持ったところで、黄金の歯車がひとりでに回転しても意味がないように、何の意味もないこと。 その正義は偏っており、好き嫌いで全てを見ようとしていないがため、つじつまが合わないもの。 至らない未熟ななか、できる努力はすること。 その結果が成功であれ失敗であれ、ただ感謝し、心を病まないこと。 心を失いさえしなければ、必ずそれは成長に繋がる。 いつでも良心を失ってはならない。
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自分が何かを学んでも、それを自分に手柄にしてはならない。
自分が何かを学んでも、それを自分に手柄にしてはならない。 それを皆も一緒に学んでいると知ること。 学びは優劣ではない。 ただ、それを受け入れるか、気づこうとするかである。 そしてそれを与えられる身を感謝するかどうかである。 それを率先して行うことが自分の仕事。 その手柄に酔いしれ、勝ち負けの力にしようとすることではない。 それは重要ではない。 もっとも小さく低く謙虚である者が、もっとも多大に敬う者である。
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都合の良い、好きなものだけを、丁重に敬うのは、敬いではない。
都合の良い、好きなものだけを、丁重に敬うのは、敬いではない。 つらいときほど、そこを試される。 都合が悪くなり、嫌いなことが増えてくる。 敵を探し、悪者を探す。 悪しき心で見ることになる。 解決を見ようとしない。 人は誰しも誰かの子だから、敬うこと。 それをしないのは、自分を敬っていない。 自分を活かす先祖代々、社会を敬っていない。 敬いが消えれば、都合や好き嫌いとなる。 そのとき人は、自分しか見ていない。 つらいときは、心で見てはならない。 そんなとき、悪しき心になるもの。 だから心で見ようとせず、心に敬いを灯し続けよ。 そして、あるがままを目で見よ。 そうすれば、つらいときでも対処法が見えてくる。 それまでの至らなさ、未熟さも、見えてくる。 それを認めて乗り越えるから、解決が成長につながる。 認めず力で強引に乗り越えようとすれば、未熟なまま。 それを繰り返すことは解決ではない。
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痛み悲しみ怒りが飛び交う世だなあと、慈悲で小さく謙虚に笑むのみ。
痛み悲しみ怒りが飛び交う世だなあと、慈悲で小さく謙虚に笑むのみ。 その笑みをもって、そのようにそうならないよう自分から進んで歩むのみ。 じつに人とは、生きる目的を忘れ、身勝手で己の感情に溺れてしまい、自他共に痛み悲しみ怒りを生み出し、ぶつけあう。 勝ち負けにこだわり、上か下かにこだわる。 強がり、否定し、恨む。 自分の良い悪いを否定するために強がり、しかし自分を守るために他者を恨む。 その感情だけで物事を見てしまえば、真は見えない。 だが真に大切なこと、真の問題を見つめれば、それは勝ち負けや上か下かではないとわかる。 それをもってすれば、小さく謙虚に笑むのみとなる。 大いなる完璧な舞台である自然界はみなそのようにして生きており、弱肉強食ではない。 もし弱肉強食であれば、際限なく欲の限りを尽くし、無理を押し続け、命の感謝を後においてしまうだろう。 それでは自然界は成り立たない。 自他ともに共生してこそ成り立つため、自分もまた自然の一部として生きる。 それはこだわりのなく、はかなくいじらしく生きている。 人はそこに気づけて、慈悲と謙虚さと笑みに気づける存在。 それを忘れてはいけない。
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本当に正しいのであれば、言葉数よりも行動。
本当に正しいのであれば、言葉数よりも行動。 それを見せて、成して、そのあとで言葉にしなければ本当ではない。