お金をものさしにすれば、お金が少なければ魂と良心も劣ると見る。 師という存在を絶対とすれば、その師のものさしにより、魂と良心で劣ると信じる。 自分のそれぞれの魂と良心がいつも絶対の一番。 それをお互いに敬うのが本当の師であり、それはそれぞれの内にある。
月別: 2019年1月
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易しい難しいか稼げる稼げないかではない。
易しい難しいか稼げる稼げないかではない。 社会の役に立つかどうか。 難しく稼げるものを成し遂げるのは特異なもの。
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問題は、ただ見ていれば終わるものではない。
問題は、ただ見ていれば終わるものではない。 目の前から消え去り終わったように見えても、新たな問題の種を生んでいる。 それを終わったと言うのは自我の狭さ。 まわりまわって目の前に来た問題は、いつか自分が生み出したもの。
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偽者は、悩みや問題があるところを正当化する。
偽者は、悩みや問題があるところを正当化する。
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ともにある魂と神を忘れずに守る、自我を守る、どちらも自分の人生の一部、似たもの。
ともにある魂と神を忘れずに守る、自我を守る、どちらも自分の人生の一部、似たもの。 共に歩めるなら良いのたが。
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相手がわかっていることを、わからなくさせて、自分の自我を植え付ける。
相手がわかっていることを、わからなくさせて、自分の自我を植え付ける。 これをわかりやすく言うと、足を引っ張ると言う。 人は弱者に合わせる慈愛と慈悲を持つ、それを、悪用する形になる。 謙虚と見せかけて支配する。 下と見せて上、上と見せて下と、せわしない。 そこに不動の心理はない。
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どうせならわたしはすべての信仰宗教の一なるところを生きたい。
どうせならわたしはすべての信仰宗教の一なるところを生きたい。 お互いが主張して本物偽物を争い、自我のために一なるところを邪魔しあうのは。この命をあずかるこのに申しわけがないから。 そしてこれは信仰宗教に限らないこと。
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感謝とは、隠れていることへの気づきと、その具体的な行いである。
感謝とは、隠れていることへの気づきと、その具体的な行いである。 それを、難しい言葉や行いで避けるように遠回りするのは、そこに、気づきがなく、具体的な行いが取れていないからである。 真実とは単純明快で、誰にもわかりやすいものである。
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ひとつを一心不乱に信じるのなら、ほかの道を否定する必要はない。
ひとつを一心不乱に信じるのなら、ほかの道を否定する必要はない。 ほかの道を否定するなら、すでにそれは信心ではない。 自分の迷いを手放さない、自我にとどまりたい、そのために教えを利用しているに過ぎない。 困難さ、多さ、長さ、それを比べて勝ち誇る物差しとするのは、自我の行い。
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とんなに素晴らしいものも、他の真実や可能性を否定する、ひとつの見方に偏れば、自我の道具に成り下がる。
とんなに素晴らしいものも、他の真実や可能性を否定する、ひとつの見方に偏れば、自我の道具に成り下がる。
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優れているかどうかの判定は、それよりも優れた者にしかできない。
優れているかどうかの判定は、それよりも優れた者にしかできない。 謙虚さや勤勉さを装った自我の強さに、真実は隠される。
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宗教的な世界に誘うものは真実ではない。
宗教的な世界に誘うものは真実ではない。 現実の生活の感覚にあってこそ真実。
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自分がわからないことを自分の間違いだとするのは、至らなさを認めないことのすり替えである。
自分がわからないことを自分の間違いだとするのは、至らなさを認めないことのすり替えである。 正しい間違い、合う合わない、向き不向き、ではない。 一番の痛手がそこにあるが、一番受け入れなくてはならないものでもある。 至らないのであれば、それは至らない、ただそれだけ。
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罪悪感に訴えるような指摘をする者は、相手がそこから反れる良心を我欲に利用する。
罪悪感に訴えるような指摘をする者は、相手がそこから反れる良心を我欲に利用する。 相手の神を信じず敬わず奪い、罪をかぶせることで相手のそれらの自信も奪い、相手の神への目を眩ませる。 そこから反れた先の場所で待ち構え、我が物にしようとする。 低い場所で浅い欲を集める場に引き込もうとする。 巧みに知恵と知識と経験といった我の力を振りかざし、追い立てる。 そのような、不徳や不道徳を指摘しての断罪を受け入れてはならない。 何故ならその者は、相手を不徳と扱い、不道徳と扱い、そのように貶めるから。 そのような価値観しか持たないのだから。 不干渉を尽くし、また、同じようなことをしてはならない。
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自分に全責任を置き向上するには、他の責任にならないよう、他への配慮がまずあってこそ。
自分に全責任を置き向上するには、他の責任にならないよう、他への配慮がまずあってこそ。 それがそまま自分に全責任を置くことにもなる。