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修行者の道と見せかけて、実はそうではないものがある。

修行者の道と見せかけて、実はそうではないものがある。
それは、家族を養うことを小さく甲斐のない繁栄だと教え、大きな繁栄を目指す夢を自我と欲望と愚かさだと教えること。
家族を捨てて、夢も捨てて、残るものは死を待つことだけ。
あとの全ては、そんな教えを訴える先生がいただく。
だが先生本人は気づかない。
死を待ちながらも、いただいたものによって自分が好きなことを味わうことに忙しい。
そうして自分好みのことばかり話す。
他の事は許さない。
そしてそれが一理あると訴えることに忙しい。
雄弁な者ほど見せかけだ。
一理あろうと、それは立つ側によっていくらでも見方が変わる。
その理の反対者もいるし、どちらの理も共に受け入れる者もいるし、ひたすら理を受け入れない者もいる。
雄弁で正義で完全無欠だと思えることほど、それは際立つ。
雄弁でなくていい、正義でなくとも、完全無欠でなくてもいい。
それが本来であり、それがほんとうの理。
理とは、主張するためのものではない。
理とは、そこにある事実の全てである。

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