未分類

善か悪かは、自分が相手かではない。

善か悪かは、自分が相手かではない。 自他共に、善悪両方を抱く。 自身の悪を滅して善を真ん中に置く。 相手と仲間になるために、相手の悪を取り入れてはならない。 逆もまた同じこと。 まず良心を生きることが第一歩であり常の歩みである。 自我を手放さなくては実現できない。 なぜなら自我は、善に慢心し、悪を正当化する。 善を滅して悪を真ん中に置く、真逆になる。


未分類

知は体験を凌駕する。

知は体験を凌駕する。 体験の積み重ねは個人の域を出ない。 体験の情報は単なる記録でしかない。 だがそれら積み重ねの末に発見された真理や真実、これが知である。 よって知は、無用な体験を避けさせる。 知が体験を凌駕すると知る者は、まず行動的である。 そして行動の結果としての体験の積み重ねや情報という、個々の範疇を超えて、全体に行き渡る真理や真実を垣間見て、知るのだ。


未分類

派手な柄の昆虫は、柄に我知らぬと、静かにたたずむ。

派手な柄の昆虫は、柄に我知らぬと、静かにたたずむ。 しかし触れれば飛び上がり、即座に噛みつきもする。 まるで眠れるロボットか爆弾が、スイッチひとつ押すこおによってその全力を大爆発させるように。 人は自我の主張のために派手な柄をまとう。 または昆虫のように無知のまま、まとわされている。 それとも知を得て脱ぐも着るも自在で、どちらに関わらず行動も自在なら、無知もなく自我もなく、人の知として残るは愛であり思いやりとなる。


未分類

今の住処が大切なように、先祖もまた別などこかの住処を大切にした。

今の住処が大切なように、先祖もまた別などこかの住処を大切にした。 住処の本質を大切にするために、今の住処を大切にする。 所有ではなく、大切で必要な役割として。 いずれ手放すからと、無下にしてはならない。 有り難い機会。 それは自分や子供の命も同じことが言える。



未分類

勇気は心の痛みを伴う、自我を手放し、周囲の心と繋がりながらも、周囲が好まない逆へと走らなくてはならないことだから。

勇気は心の痛みを伴う、自我を手放し、周囲の心と繋がりながらも、周囲が好まない逆へと走らなくてはならないことだから。 無謀は周囲が憧れる自我の夢に酔い、心の繋がりもなく、欲望のみであり、心の痛みを伴わない。



未分類

信念という芯は表に出して外に向ければ、ひ人を叩く棒にしかならない。

信念という芯は表に出して外に向ければ、ひ人を叩く棒にしかならない。 内容や意味は問題ではなくなる。 あるいは欲望で欲しいものをかき集めるさじに使う。 芯を常に中身に抱き育み感謝して、それを軸に誠実であれ。 その行いが刀なら、刀は信念では無い。 信念を阻む歪み、まず己の歪みを正すために、正しく振る。 それが行いにも反映されて行けば、周囲に貢献する行いとなる。



未分類

ゲームはやりとりであり、行動とは言えない。

ゲームはやりとりであり、行動とは言えない。 ゲームの勝敗は上下や優劣を決めない。 ただ相手を無き者にするため、問答無用の一刀両断を、行動すればよい。 その時、仮想敵は透明でなくては、これもまたゲームになり、我欲や悪徳に負けたのだ。 仮想敵が他人であろうと、自分自身であろうと、透明ではない。 一刀両断すべきか、良心は本当か。 その懐と猶予を持つには、明鏡止水の無心、姿勢の傾きも歪みもない、その一刀の前に、我欲や悪徳を置き去り、一刀のあとに無からの未来の創造が生まれる。 さもなくばその一刀は傾き歪み、遺恨を引きずって、その悪徳を周囲に飛び火させる。 あるいは身体中をチカラが乱れとび、自分の体のどこかを壊す。