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自分だけがいくら成長しても意味はない。

自分だけがいくら成長しても意味はない。 周囲の成長を忍耐強く待たなくてはならない。 じつは自分もほとんど成長などしていない。 それを他者よりも先に手にするよう恵まれていたか、その力だけは他者よりも強かっただけ。 たしかに学びも知識も知恵もつくだろう。 忍耐がなければ、なぜ自分がそれらを多く受け取ったのかを知ることはできない。 待つことはできる。 だがその間の姿勢が成長には重要。 成長とは、根から養分を吸収し、果実を実らせ、それを周囲に与える果樹の成長を見守る、与える一方の太陽の愛の成り立ちこようなもの。 待ちながら他者を見下し続けていたのなら、それは成長ではない。


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希望とは、願ったことが叶うのではなく、未来のある方向へと、自分の存在が変わっていくことにある。

希望とは、願ったことが叶うのではなく、未来のある方向へと、自分の存在が変わっていくことにある。 言動、知識、知恵、姿勢、心、体の扱い、その全てが。 だから、自分の存在そのものを善くあろうと反省し学び実践して成長すれば、ふと淡く、その先の姿を無理なく、なんとなく感じ取る。 そんなときはこの世界の全てが確信を与え、本人はそれが叶うかどうかを心配かどしないもの。 でなければ、願っては叶わないことをおそれて気に病むことを繰り返す。 淡く無理なくとは、ささやかな日常。 しかしそれは妥協や甘えではなく、試練を悪態つかず愛で赦し受け入れ淡々と取り組み前に進み、善い未来をこさえてゆくこと。


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良心は金銭では買えない。

良心は金銭では買えない。 金銭の多さで良心は左右されない。 金銭の多さで照明もできない。 良心で働けば金銭は稼げる。 ただ目先の生業を懸命に働くのみ。 これを逆にとってはならない。 逆にとると、金銭さえ多ければ何をしても良いとなる。 金銭欲が強く、その自覚を持たない者は、自覚を持たないからこそ、金銭欲が無いと言う。


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善悪は時と場所によって変わる。

善悪は時と場所によって変わる。 国、地域、個人、記憶。 だが良心はゆるがない。 良心が生んだ時と場所の国や地域や個人は、良心に基づく言動を守りやすい。 だがいずれ良心を忘れ、言動を守ることだけが残る。 やがて善悪で人を裁き始める。 いよいよ良心に基づく言動すらも消えていく。 善悪を自分のためだけに都合よくしようとしはじめる。 善も悪も、いくらでも脚色できることを忘れてはならない。 朝露を親の仇として周囲に伝えることもできてしまう。 時の経過や場所の移動によって、本来のものが霞んだり不確かになり、揺らいだものとなるため、いっそう好き勝手に脚色しやすく思える。 だがそれはすでに揺らいだ蜃気楼のように、間違っている。 まとめると善悪は裁くためのものではない。 善とは、命の機会を感謝し、善くあろうと反省し学び、それを言動に起こすよう努め、前に歩み続けるものである。 つまり善とは、自分が成ろうとし、自分が生もうとするものであり、自分を新たに生みなおすものである。 呼吸のたびにすらそれを想うものである。 他人を悪にしても自分は善にはならない。 良心を忘れたら、自分の善は揺らぎ、悪として何を裁くかもゆらぐ。 敵かと思えば味方となる、そのように忙しく手のひらを変えるだけ、人生は浪費されてゆく。


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生かされる感謝は、自分の命がまだある有り難みもあるが、自分を生かす周囲の力、先祖や神の有り難みでもある。

生かされる感謝は、自分の命がまだある有り難みもあるが、自分を生かす周囲の力、先祖や神の有り難みでもある。 それを漏らさず四方八方や奥や裏まで気づくこと。 それは忘れたことを思い出すこと。 いちど忘れてから思い出すと、忘れていた合間の全てが鏡や輪郭や様々な道具となりかわり、その有り難みを気づかせる。 無意識から意識へと変わる。 失うことの恐怖から、全てが有り難みに満たされて希望の海に浸っていることを気づく。 気づけばそこに悲観はない、闇に光が届くように。



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新しいものを疑う時は、自我に焦点が向いているため、新しいものを弁護する一つの事例を、それしかないと可能性を狭めて捉える。

新しいものを疑う時は、自我に焦点が向いているため、新しいものを弁護する一つの事例を、それしかないと可能性を狭めて捉える。 焦点を自我に絞らない者は、一つの事例が、あくまで例えの一つに過ぎず、その裏にある多くの可能性を想定すし感じ取る。







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人が善く変わるには、柔らかく謙虚な年寄りを目指す。

人が善く変わるには、柔らかく謙虚な年寄りを目指す。 なぜなら過去の自分や今の自分を別人に変えようとしてもそれは現実に反した嘘でしかないし、変わるとすれば白紙の未来しかないから。 そしてその未来の最先または幸先は、柔らかく謙虚になることしかないから。


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自分の内側に向けば、外に依存しない。

自分の内側に向けば、外に依存しない。 だが奉仕するときは外側に向いて依存しがち。 外への奉仕のつもりが外へ負担をかける。 奉仕は無私を試される。 見返りも報酬もなく、与えるのみ。 自分の内側が真に生きてこそ、外へ与えられる。 だから自分の内側に向くとは、自分の我儘ではなく、無限の愛の分け御霊を預かっていることを大切にし、いつも共にあり、そこに愛を見出し、それを源に外を愛することである。