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自分の内なるものを見失い、外に探し始める。

自分の内なるものを見失い、外に探し始める。 でもそれでは見つからない。 学問、宗教、他との争いに答えを求め、自分こそが答えだと戦う。 たしかに自分こそが答えだが、自分が外に向けているものにはない。 自分の内なるものにある。 こうした内外のやりとりの両方を体験することで、現実を体験できる。 鏡を見るように。 外にあるものは自分が選んだものを写す鏡のようなもの。 内なるものを知る顔が写るか、争いと戦いを外に追いかける顔が写るか。 外に追いかけるなら、自分が外に追いかけたい部分しか認識できない。 相手を小さく見るのは、小さなものを外に求めるから。 相手を大きく見るのは、大きなものを外に求めるから。 内なるものを知るなら、大きなものを抱いているのに小さく留ってしまっていることへの、憐れみ、思いやり、助け合い、支え合い、が見えてくる。 逆なら、それは見えてこない。 人は、外に見たいものを求めて選択している限り、認識は偏り、全てを見ていない。 内なるものが世界を見る主人。 その主人が不在では、偏った認識にとらわれてしまう。 自分こそが答えだと、外に向ける、その過ちをあきらめ、争いと戦いを、許し、手離してみる。 そのとき主人からの認識が邪魔なく伝えられる。


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神様のことよりまず自分、というが、本当にそんなに大変か。

神様のことよりまず自分、というが、本当にそんなに大変か。 それまでたまたま楽をできただけで、本来は必要な苦労ではないか。 それは本当に底辺か。 自分の都合や楽や、逃げたがる心を優先したいから騒いで、ひとりでに悩み苦しんではいないか。 エゴが強くないか。 それを解き明かすのが、神様のことを知ることでもある。 それを阻むエゴを手放すことから始まるからである。








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美しい素晴らしいものを見て、受け取りたい惜しみを生きれば、執着と失うことの悲しみを生きることになる。

美しい素晴らしいものを見て、受け取りたい惜しみを生きれば、執着と失うことの悲しみを生きることになる。 自分もまた同じく美しく素晴らしい命を生きる、仲間であり、同じ方向へと進む家族兄弟として生きれば、受け取るまでもなく同じものを受け取った身として、与えるのみに生きる、晴れ晴れとした、清々しさとなる。