自分の間違えを正せというが、それも過ぎると内なる良心と神をも潰す。 まずその自分を整えるために、感謝を生きよ。
月別: 2019年4月
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人を変えようとしてはならない、しかし変わるほどの貢献や奉仕は存分にすべし。
人を変えようとしてはならない、しかし変わるほどの貢献や奉仕は存分にすべし。
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自分の組織のために良識を欠いた体裁を保つのは、組織を食い物にしている証。
自分の組織のために良識を欠いた体裁を保つのは、組織を食い物にしている証。 良識を保つのは、各自の良識が行うこと。 人々の識が組まれて組織となる。 そこに任せることが、人々を食い物にしないということ。
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自分の内なるものを見失い、外に探し始める。
自分の内なるものを見失い、外に探し始める。 でもそれでは見つからない。 学問、宗教、他との争いに答えを求め、自分こそが答えだと戦う。 たしかに自分こそが答えだが、自分が外に向けているものにはない。 自分の内なるものにある。 こうした内外のやりとりの両方を体験することで、現実を体験できる。 鏡を見るように。 外にあるものは自分が選んだものを写す鏡のようなもの。 内なるものを知る顔が写るか、争いと戦いを外に追いかける顔が写るか。 外に追いかけるなら、自分が外に追いかけたい部分しか認識できない。 相手を小さく見るのは、小さなものを外に求めるから。 相手を大きく見るのは、大きなものを外に求めるから。 内なるものを知るなら、大きなものを抱いているのに小さく留ってしまっていることへの、憐れみ、思いやり、助け合い、支え合い、が見えてくる。 逆なら、それは見えてこない。 人は、外に見たいものを求めて選択している限り、認識は偏り、全てを見ていない。 内なるものが世界を見る主人。 その主人が不在では、偏った認識にとらわれてしまう。 自分こそが答えだと、外に向ける、その過ちをあきらめ、争いと戦いを、許し、手離してみる。 そのとき主人からの認識が邪魔なく伝えられる。
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神様のことよりまず自分、というが、本当にそんなに大変か。
神様のことよりまず自分、というが、本当にそんなに大変か。 それまでたまたま楽をできただけで、本来は必要な苦労ではないか。 それは本当に底辺か。 自分の都合や楽や、逃げたがる心を優先したいから騒いで、ひとりでに悩み苦しんではいないか。 エゴが強くないか。 それを解き明かすのが、神様のことを知ることでもある。 それを阻むエゴを手放すことから始まるからである。
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大切な真実を知ったとして、他人にその実行を期待はできない。
大切な真実を知ったとして、他人にその実行を期待はできない。 まず自分から実行をすること。 なぜならそれを知った人しか実行をできないのだから。
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環境の影響を受けたのか、環境を自分なりに受け止めたのか。
環境の影響を受けたのか、環境を自分なりに受け止めたのか。 自分の感性を通したかどうかで、環境の結果は変わる。 またその感性の良し悪しによっても結果は変わる。
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崇高なものを説明するほど、説明の尊大さ、およびその感情や感覚の刺激が中心となる。
崇高なものを説明するほど、説明の尊大さ、およびその感情や感覚の刺激が中心となる。 それは崇高なものから離れる。 素朴で素直で普通なことに、そうした刺激は不要ばかりか、かえって遠ざかる要員になる。
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誇れるものは不要、感謝すべきことを忘れずにいた感謝したことが後々に誇りになるにすぎない。
誇れるものは不要、感謝すべきことを忘れずにいた感謝したことが後々に誇りになるにすぎない。
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信用されているから休めるのではない。
信用されているから休めるのではない。 休む間も必要な処置をほどこせることへの期待があるから休める。 いかなるときも人生は本番。
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失敗から学ぶことを恐れて、成功のみ求めるのは、正義ではない。
失敗から学ぶことを恐れて、成功のみ求めるのは、正義ではない。 自他の失敗から学ぶべく他者への理解を得ようとせず、他者を否定することで自分の正しさを主張することは、正義ではない。
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美しい素晴らしいものを見て、受け取りたい惜しみを生きれば、執着と失うことの悲しみを生きることになる。
美しい素晴らしいものを見て、受け取りたい惜しみを生きれば、執着と失うことの悲しみを生きることになる。 自分もまた同じく美しく素晴らしい命を生きる、仲間であり、同じ方向へと進む家族兄弟として生きれば、受け取るまでもなく同じものを受け取った身として、与えるのみに生きる、晴れ晴れとした、清々しさとなる。
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平静さを厳しく教えこめば、緊張の装いを植え付ける。
平静さを厳しく教えこめば、緊張の装いを植え付ける。
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社会環境が作った道徳や性別、本質からの道徳や性別。
社会環境が作った道徳や性別、本質からの道徳や性別。 社会環境に和して生きるための道徳や性別を生きることは大事。 しかし本質から外れ始めたら、社会の自我のためだけに生きることになる。
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感覚が鋭く繊細でも、自我で狭い判断してしまうなら意味はない。
感覚が鋭く繊細でも、自我で狭い判断してしまうなら意味はない。