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問題を指摘されて、何かの対比や対立や比較に話をもってゆくとき、人は自分自身の問題から逃げている。

問題を指摘されて、何かの対比や対立や比較に話をもってゆくとき、人は自分自身の問題から逃げている。 当事者であることから逃げようとする。 客観視のつもりでいて、じつは当事者であることから逃げる。 その場から逃げて、外野から評論家分析してしても、そこに自分自身がいないのだから、客観視ではない。 指摘してくれたものこそが客観の主人。 あるいはその場で鏡を見ること。 自分の自我の衣を脱いで、その場に置き、別なものを着てみること。 こだわる自我は強いほど、学者の知識をふりかざす。 そこに純真な、当事者としての生気はない。 ゆがんだ自我がそこにあるのみ。 抜け殻のように。 命から逃げている。















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外面のことしか見えなければ、人はそれを外面のみと誤解する。

外面のことしか見えなければ、人はそれを外面のみと誤解する。 心の動きにとらわれれば、人はそれを内面と呼ぶ。 しかし心に外面の実態がなく、外面を見て判断する人にしてみれば、心は存在しないものとなる。 心を内面と呼ぶものは、言い換えると思考の動きにすぎないものとなる。 思考ではとらえられないもの、それは外面も内面も変わらず、同じこと。 真の内面と外面は、思考からは生まれない。 それは真実から生まれる。 真実の探求は、意識を通り越す先にある真理を、意識に写すこと。 思考してそれを捉えようとせず、ただ真摯に誠心誠意に愛を持って行為すること。 愛を隠し、誠心誠意を隠す、これが自我の思考と知ること。