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習慣、民族性、国民性、文化が人を世界で一番の人生に引き上げることはない。

習慣、民族性、国民性、文化が人を世界で一番の人生に引き上げることはない。 世界でいちばんの人生とは、すでに人ぞれぞれの中にある平安にあり、それを阻むものを反省し、各自の程度の知れた習慣や民族性や国民性や文化の小さな限界を知り、お互いが助け合うことにある。 そのうえで生まれた習慣、民族性、国民性、文化は、はじめて崇高なものとなる。


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必要なことだけなら情報は少ない。

必要なことだけなら情報は少ない。 しかし不要あるいは嘘の情報の中からそれを見つけ出すには、大量の情報を集めて、分析を行った後に、ようやく必要な少ない情報に絞り込むことができる。 まるで乾いた雑巾を絞り、一滴の水を取り出すように。 そこに水は存在しないと言う者は、泥水しか知らない無知と慢心と欲望の猛獣なのだが、これにに打ち勝つ必要がある。 しかし無知と慢心と欲望は重なってゆく。 これと戦い続ければ疲れ果てて人生は失われる。 これを重ねてゆく、人生を失うことに躊躇しない、愚か者が相手なのだから、終わりがない。 だからその争いをするかわりに心に手を当てて心を澄ませ、その気持ちに耳を貸せば、どこに見当をつけるべきか、わかる。 それは良心と呼ばれ、生きる感覚である。 愚か者との戦いに終わりはなく、そこに残ることが勝者なら、それは変わらずに愚か者である。 勝者ではなく敗者であろう。 その勝利にこだわる愚か者に引き込まれて負けん気を起こしてはならない。







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目覚めていない間は、ほんとうに自主的に意識的に選択することは少ない。

目覚めていない間は、ほんとうに自主的に意識的に選択することは少ない。 幸せな選択なら慢心し、辛い選択なら誰かを責める。 どちらにもほんとうの自分という安らぎとしあわせは存在しない。 しかし慢心と、誰かを責めることをやめて、自分を生きようと決めたら、そこから人は目覚めてゆく。







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相手を悪く言うときは、役割を任せたいとき。

相手を悪く言うときは、役割を任せたいとき。 役割を任せたいときは、誰の役割かをわかっていない。 または、誰かがそれを拒んでいるか、見落とされてきた。 その役割は全体のためにある。 よって自分も含めた適任者を考えることが大切。 相手を悪く言うことは自分を棚に上げている。 拒む者はどうやっても拒む、責任を負わせることはできない。 いくら天才であろうともそこは仕方ない。 宝の持ち腐れとは言うが、宝が自分から腐ることもある。 それは本人が宝の持ち腐れをしているとも言える。 全体のために考えること。 自分のことだけ考えてはならない。 かつ他人の役割のことだけを考えてもならない。 自分の役割についても考えること。 矛盾しているように思うなら、それは個人を責める観点があるから。 何が一番大切か、それは健全であること、良心に反しないこと。 個人を責める観点は、その2つを常に失う。 罪を悪んで人を悪まずとは、まさにこの戒め。


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正しさとは、敵や味方に分けるためにはなく、自分の良心との関係。

正しさとは、敵や味方に分けるためにはなく、自分の良心との関係。 いつも自分の良心に問いかけて、敵や味方といった世界の中道にいる状態であること。 そこからの言葉や行いは、正しさを運び伝えるにふさわしい。 どんなに正しいことも、時と場所そして心のあり方によって、間違いにもなる。 そこには理屈は通用しない。 力を見せつけて正しさを証明したり主張するとき、こうした大切な状態を見失っている。