人それぞれだが、人みな同じでもあることが形を変えて表現されること。 自分の一人よがりを心配する者は大丈夫。 他人の一人よがりを心配する者は自分のそのような価値観で世界を見ている。
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仕方がないというのは、万事を尽くした後の無力を受け入れるときのもの。
仕方がないというのは、万事を尽くした後の無力を受け入れるときのもの。 なにもせず初めから使うものではない。
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他者の喜びを否定する節約は、独善が他者を支配し、他者を善くするものとはならない。
他者の喜びを否定する節約は、独善が他者を支配し、他者を善くするものとはならない。 にもかかわらず信じさせ賛美させることが自主的な追従と思い込ませる支配の力となる。 それによって世にもたらすものが真に人のためかは疑わしい。 毒を売るものは毒を飲まない。 毒を飲むことしか喜びはないと誤解し、毒となる喜びしか知らない。 善行を自慢するする者は慢心のかたまり。 その言動は裏に善を隠すものを持つ。 そのためには善と錯覚させる言動を必要とする。
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自分の軸が中心に正しくなるほど、周囲の傍若無人は遠心力を増す。
自分の軸が中心に正しくなるほど、周囲の傍若無人は遠心力を増す。 それを変わらず愛し続けて耐えられるかを試されることになる。 やがて軸をぶらす言動は行き場を失い、収まって行く。
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寂しがることはない、そこにはいつも自分がいる。
寂しがることはない、そこにはいつも自分がいる。 自我はそれを忘れたときに、別なものを欲しがり、自分を欲しがる。 すでにあるのにも関わらず。
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敵を探して自分の正しさを探すかぎり、自分を生きず、人生を無駄にする。
敵を探して自分の正しさを探すかぎり、自分を生きず、人生を無駄にする。 敵も味方も自分も同じ人であり、敵の過ちは自分にもありえること。 その正しさは間違いがあり、嘘があり、無理があり、愛と良心を忘れさせる。 こじれて、やがてそれは自分を生きられないことの恨みとなる。 その恨みをぶつける敵を探して、悪循環となる。
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人が自我の塊で傲慢で未熟で嘘つきで間違いだらけとわかったから、どうだというのだ。
人が自我の塊で傲慢で未熟で嘘つきで間違いだらけとわかったから、どうだというのだ。 それでも愛さずにはいられないことと、その愛に応えるお互いの心のみを見られればそれが全てではないか。 何のためにこの、あっという間に終わる人生を授かったのか。 完璧になどなれはせず、しかしその中にある愛の主人は最初から完璧。 それと出会い、それを見合う生き方をするために。 そのとき傲慢や未熟や嘘や間違いは、乗り越えられて、愛のための試練だったことになる。 完璧になるために乗り越えるのではない。 完璧になるため乗り越えるなら、この世の全ての傲慢や未熟嘘や間違いを無限に生きなくてはならないが、それはできないこと。
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批判は今の自分よりも劣り狭く悪意の目線で世界を見下し見誤る。
批判は今の自分よりも劣り狭く悪意の目線で世界を見下し見誤る。 それは自分を今よりも劣り狭く悪意ある者へと落とす。
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新しい今を見ずに古い決めつけを見れば、命から遠ざかる。
新しい今を見ずに古い決めつけを見れば、命から遠ざかる。
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人の変化を否定する人は、自身が変化しない自我の権化の頑固者。
人の変化を否定する人は、自身が変化しない自我の権化の頑固者。
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お互いを見て仲良くできなくても、同じものを見て仲良くできる。
お互いを見て仲良くできなくても、同じものを見て仲良くできる。 人は皆ひとりなのだから。
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自分の判断ならばすべて成功して、失敗はすべて他人のせいとでも言うのか。
自分の判断ならばすべて成功して、失敗はすべて他人のせいとでも言うのか。
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自分の世界は、住んでいるこの世界のことであり、それと人を分断させるのが、自分という自我。
自分の世界は、住んでいるこの世界のことであり、それと人を分断させるのが、自分という自我。
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良運や徳は、自分や家族や先祖の愛で育まれる。
良運や徳は、自分や家族や先祖の愛で育まれる。 なぜなら無償の与える一方の愛はそこからしか来ないから。
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事実や真実と違うことをすると、嘘をつくことになる。
事実や真実と違うことをすると、嘘をつくことになる。 例えば、みんなのものである神を売り物にする事。