人が見て見ぬ振りして忘れようと逃げる問題は、深層心理の、難しいものなどではない。 それはきわめて表面的で簡単な顔の汚れのようなもの。 問題から逃げるのは、鏡から逃げること。 泥んこの顔で笑って恥じずに遊べば、それを洗い落とすことも楽しむ。 隠して恥レバ、洗い場へ行くことすら人目を気にして、たどり着けない。
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乗り越えようとせず、その場を我慢するだけの者に、乗り越えた先の素晴らしさ、つまりは生きる素晴らしさを知ることはない。
乗り越えようとせず、その場を我慢するだけの者に、乗り越えた先の素晴らしさ、つまりは生きる素晴らしさを知ることはない。
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慢心とは、有限なものを永遠として現実から逃げたい気持ちから出てくる。
慢心とは、有限なものを永遠として現実から逃げたい気持ちから出てくる。
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自我を守ろうとするとき、人はいちばん大切なことを悪とみなす。
自我を守ろうとするとき、人はいちばん大切なことを悪とみなす。 そして、そうするためには視野を狭めて、理解を浅くして、それを正義とするために、聞く耳を持たない屁理屈と力を誇示する。 それを指摘するものに力を誇示して、比較で自分を上にして、相手の弱さにつけこみ、真の正義を悪とさせる。
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理屈だけだと、知りうる狭い理屈だけの理解にとどまる。
理屈だけだと、知りうる狭い理屈だけの理解にとどまる。 見聞きできないことへのふるまいの理解が失われる。 ふるまいのみを守れば、理解は無くとも実質は良い。 たがそれを見聞きしたいからと、理屈で考えれば、間違った理解が実質を失わせる。
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自分だけが正しいと思いたいとき、人は自分以外が何か悪いものを隠して偽っているとしか見えない。
自分だけが正しいと思いたいとき、人は自分以外が何か悪いものを隠して偽っているとしか見えない。 そうして比較することで、自分だけが正しいと、自分自身を騙す。 これが自我。 真実は逆で、良いものが隠れていて、それは自他に共通している。 これを見通すように努めなければ、自分の言葉は周囲の目をくらませてゆく。 真実とはそうした個々の癖のことではなく、個々に内在している。 それを精一杯、生きることが、個性となる。
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極端な差を見せるものとは、それだけ虚ろなものであるということ。
極端な差を見せるものとは、それだけ虚ろなものであるということ。
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お金をものさしにすれば、お金が少なければ魂と良心も劣ると見る。
お金をものさしにすれば、お金が少なければ魂と良心も劣ると見る。 師という存在を絶対とすれば、その師のものさしにより、魂と良心で劣ると信じる。 自分のそれぞれの魂と良心がいつも絶対の一番。 それをお互いに敬うのが本当の師であり、それはそれぞれの内にある。
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易しい難しいか稼げる稼げないかではない。
易しい難しいか稼げる稼げないかではない。 社会の役に立つかどうか。 難しく稼げるものを成し遂げるのは特異なもの。
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問題は、ただ見ていれば終わるものではない。
問題は、ただ見ていれば終わるものではない。 目の前から消え去り終わったように見えても、新たな問題の種を生んでいる。 それを終わったと言うのは自我の狭さ。 まわりまわって目の前に来た問題は、いつか自分が生み出したもの。
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偽者は、悩みや問題があるところを正当化する。
偽者は、悩みや問題があるところを正当化する。
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ともにある魂と神を忘れずに守る、自我を守る、どちらも自分の人生の一部、似たもの。
ともにある魂と神を忘れずに守る、自我を守る、どちらも自分の人生の一部、似たもの。 共に歩めるなら良いのたが。
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相手がわかっていることを、わからなくさせて、自分の自我を植え付ける。
相手がわかっていることを、わからなくさせて、自分の自我を植え付ける。 これをわかりやすく言うと、足を引っ張ると言う。 人は弱者に合わせる慈愛と慈悲を持つ、それを、悪用する形になる。 謙虚と見せかけて支配する。 下と見せて上、上と見せて下と、せわしない。 そこに不動の心理はない。
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どうせならわたしはすべての信仰宗教の一なるところを生きたい。
どうせならわたしはすべての信仰宗教の一なるところを生きたい。 お互いが主張して本物偽物を争い、自我のために一なるところを邪魔しあうのは。この命をあずかるこのに申しわけがないから。 そしてこれは信仰宗教に限らないこと。
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感謝とは、隠れていることへの気づきと、その具体的な行いである。
感謝とは、隠れていることへの気づきと、その具体的な行いである。 それを、難しい言葉や行いで避けるように遠回りするのは、そこに、気づきがなく、具体的な行いが取れていないからである。 真実とは単純明快で、誰にもわかりやすいものである。