家族を持てば自動的に強くなるのではない。 愛着はより強くなり、そこからほんとうの愛を生きるまでの試練を乗り越えて成長するから強くなる。
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相手が何かを言うとき、その言葉に意味はない。
相手が何かを言うとき、その言葉に意味はない。 何故それを言ったかに、意味がある。 だから返答するときは、その意味に返答しなければならない。 さもないと相手はいつまでも、答えを得られない。 だが本来、その意味をあらわすのが言葉。 だから意味をあらわすために深く自己を見つめて考えない者の言葉は、いつも意味がなく、意味を隠している。 本人が伝えたい意味が伝わらず、理解されない。思いやりも受けられない、と間違って受け取る。 だが周囲は理解しようと、思いやろうと、している。 それは隠された言葉の意味を探ろうとしなくても、態度や行動を見ればわかる。 だがそれもまた、自分と他人をどちらも理解しようとしなければ、やはりできない。 現実から逃げる限り、それはできない。 これはいつの時代も変わらない。 現実とは、誰もが本心を生きなくてはならないこと。 本心とは、自分の都合や見栄や良し悪しといった自我のことではない。 生かされていることに感謝すること。 すべては与えられ、経験され、乗り越えること。 生きていればこそのこと。 乗り越えるべき山は外ではなく、そこに言い訳を見つけて避けて逃げる自我、そんな自分の内にある。 これも生きていればこそ。 外の山は人によって苦楽が違う。 だが内の山は誰にとっても等身大の自分、違いはない。
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愛や真実を本当に知ることができるなら、その試練は祝福である。
愛や真実を本当に知ることができるなら、その試練は祝福である。 命なければその祝福は受けられない。
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他人の言いなりでもなく、自分勝手でもなく、自分を全体のために活かすこと、そこに自分の価値がある。
他人の言いなりでもなく、自分勝手でもなく、自分を全体のために活かすこと、そこに自分の価値がある。
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どんな通信手段が出て来ても、お互いがそれに応じて連絡を取り合う。
どんな通信手段が出て来ても、お互いがそれに応じて連絡を取り合う。 その関係はかけがえがない、それを第一に。
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個人の責任と考えると、その人は反省せず、他者のせいにするし、指摘されても反抗する。
個人の責任と考えると、その人は反省せず、他者のせいにするし、指摘されても反抗する。 全体の責任と考えると、自分がどう変われば良いかと、自分事として考え始め、指摘されたことを客観的かつ具体的に反省し、成長する。
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希望を無くすこととは、気づくという光が消えていくこと。
希望を無くすこととは、気づくという光が消えていくこと。 もっとも希望を無くすこと、それは自分の背中について、他者の気づきを真剣に受け取らないこと。
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無味無臭で透明無色であれば誰も傷つけない。
無味無臭で透明無色であれば誰も傷つけない。 そればかりか、神聖な空気はそこに愛があり、何かに気づかせ、何かを内省させ、学ばせる何かを持つ。
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本当のことを知りたいのは、好奇心や知的な欲からではない。
本当のことを知りたいのは、好奇心や知的な欲からではない。 それを失っているなら、どうすれば取り戻せるのか。 誰かを変えるとか、誰かに変えてもらうとかではない。 どんな自分を取り戻すことなのか。 それを知りたいからである。
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自分だけがいくら成長しても意味はない。
自分だけがいくら成長しても意味はない。 周囲の成長を忍耐強く待たなくてはならない。 じつは自分もほとんど成長などしていない。 それを他者よりも先に手にするよう恵まれていたか、その力だけは他者よりも強かっただけ。 たしかに学びも知識も知恵もつくだろう。 忍耐がなければ、なぜ自分がそれらを多く受け取ったのかを知ることはできない。 待つことはできる。 だがその間の姿勢が成長には重要。 成長とは、根から養分を吸収し、果実を実らせ、それを周囲に与える果樹の成長を見守る、与える一方の太陽の愛の成り立ちこようなもの。 待ちながら他者を見下し続けていたのなら、それは成長ではない。
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希望とは、願ったことが叶うのではなく、未来のある方向へと、自分の存在が変わっていくことにある。
希望とは、願ったことが叶うのではなく、未来のある方向へと、自分の存在が変わっていくことにある。 言動、知識、知恵、姿勢、心、体の扱い、その全てが。 だから、自分の存在そのものを善くあろうと反省し学び実践して成長すれば、ふと淡く、その先の姿を無理なく、なんとなく感じ取る。 そんなときはこの世界の全てが確信を与え、本人はそれが叶うかどうかを心配かどしないもの。 でなければ、願っては叶わないことをおそれて気に病むことを繰り返す。 淡く無理なくとは、ささやかな日常。 しかしそれは妥協や甘えではなく、試練を悪態つかず愛で赦し受け入れ淡々と取り組み前に進み、善い未来をこさえてゆくこと。
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良心は金銭では買えない。
良心は金銭では買えない。 金銭の多さで良心は左右されない。 金銭の多さで照明もできない。 良心で働けば金銭は稼げる。 ただ目先の生業を懸命に働くのみ。 これを逆にとってはならない。 逆にとると、金銭さえ多ければ何をしても良いとなる。 金銭欲が強く、その自覚を持たない者は、自覚を持たないからこそ、金銭欲が無いと言う。
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善悪は時と場所によって変わる。
善悪は時と場所によって変わる。 国、地域、個人、記憶。 だが良心はゆるがない。 良心が生んだ時と場所の国や地域や個人は、良心に基づく言動を守りやすい。 だがいずれ良心を忘れ、言動を守ることだけが残る。 やがて善悪で人を裁き始める。 いよいよ良心に基づく言動すらも消えていく。 善悪を自分のためだけに都合よくしようとしはじめる。 善も悪も、いくらでも脚色できることを忘れてはならない。 朝露を親の仇として周囲に伝えることもできてしまう。 時の経過や場所の移動によって、本来のものが霞んだり不確かになり、揺らいだものとなるため、いっそう好き勝手に脚色しやすく思える。 だがそれはすでに揺らいだ蜃気楼のように、間違っている。 まとめると善悪は裁くためのものではない。 善とは、命の機会を感謝し、善くあろうと反省し学び、それを言動に起こすよう努め、前に歩み続けるものである。 つまり善とは、自分が成ろうとし、自分が生もうとするものであり、自分を新たに生みなおすものである。 呼吸のたびにすらそれを想うものである。 他人を悪にしても自分は善にはならない。 良心を忘れたら、自分の善は揺らぎ、悪として何を裁くかもゆらぐ。 敵かと思えば味方となる、そのように忙しく手のひらを変えるだけ、人生は浪費されてゆく。
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生かされる感謝は、自分の命がまだある有り難みもあるが、自分を生かす周囲の力、先祖や神の有り難みでもある。
生かされる感謝は、自分の命がまだある有り難みもあるが、自分を生かす周囲の力、先祖や神の有り難みでもある。 それを漏らさず四方八方や奥や裏まで気づくこと。 それは忘れたことを思い出すこと。 いちど忘れてから思い出すと、忘れていた合間の全てが鏡や輪郭や様々な道具となりかわり、その有り難みを気づかせる。 無意識から意識へと変わる。 失うことの恐怖から、全てが有り難みに満たされて希望の海に浸っていることを気づく。 気づけばそこに悲観はない、闇に光が届くように。
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良心に反しても神の名の下に行う時、それは神とは別な何かの名の下になっている。
良心に反しても神の名の下に行う時、それは神とは別な何かの名の下になっている。