相手が何かを言うとき、その言葉に意味はない。
何故それを言ったかに、意味がある。
だから返答するときは、その意味に返答しなければならない。
さもないと相手はいつまでも、答えを得られない。
だが本来、その意味をあらわすのが言葉。
だから意味をあらわすために深く自己を見つめて考えない者の言葉は、いつも意味がなく、意味を隠している。
本人が伝えたい意味が伝わらず、理解されない。思いやりも受けられない、と間違って受け取る。
だが周囲は理解しようと、思いやろうと、している。
それは隠された言葉の意味を探ろうとしなくても、態度や行動を見ればわかる。
だがそれもまた、自分と他人をどちらも理解しようとしなければ、やはりできない。
現実から逃げる限り、それはできない。
これはいつの時代も変わらない。
現実とは、誰もが本心を生きなくてはならないこと。
本心とは、自分の都合や見栄や良し悪しといった自我のことではない。
生かされていることに感謝すること。
すべては与えられ、経験され、乗り越えること。
生きていればこそのこと。
乗り越えるべき山は外ではなく、そこに言い訳を見つけて避けて逃げる自我、そんな自分の内にある。
これも生きていればこそ。
外の山は人によって苦楽が違う。
だが内の山は誰にとっても等身大の自分、違いはない。