食べるとき、飲み込む前に、感謝を与え、唾液を与え、歯当てを与え、賞賛を与えている。 ただむさぼり奪い受け取るのではなく、ひたすら与えるような気持ちで食べると、無駄なものは入る余地がなくなる。 そのあたえる流れに逆らっても与えられるものを受け取る。
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文章が難解になる者は、絵や音楽で物語を作り、そこに言葉を組み合わせることが向いている。
文章が難解になる者は、絵や音楽で物語を作り、そこに言葉を組み合わせることが向いている。 そうでない者は文章だけのほうが向いている。 文章が先にあって絵や音楽をつけたほうが良い者もいれば、逆の者もいる。 絵や音楽だけが良い者もいる。 人それぞれに想いを出しやすい適切な表現方法がある。 こうでなければならないという形を決めなくていい。 他人に憧れず、自分を表現しよう。
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相手のためになることを考えられない者は、自分のためになることをそもそも考えられないから。
相手のためになることを考えられない者は、自分のためになることをそもそも考えられないから。 相手のことが見れないのは、人を見るという視点を自分を見るために向けられていないから。
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終わりを知らない欲望の満足を受け取るために消費せず、生かしていただく力への感謝と賞賛を与えるために消費せよ。
終わりを知らない欲望の満足を受け取るために消費せず、生かしていただく力への感謝と賞賛を与えるために消費せよ。
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相手が自分の敵と思えるときは、いくつかある。
相手が自分の敵と思えるときは、いくつかある。 ひとつ、相手の進言忠言を敵視して素直に受け取らない自分の自我が相手を敵と思わせるとき。 ひとつ、相手が自分の進言忠言を受け取らず、その反応を素直に受け取らず自我で受け取り、相手の自我と対立し、自我が相手を敵と思わせるとき。 どちらも自分が素直なら、敵などいない。お互いの欠点をすなおに受け入れて、親御心の親身で対応すること。 その自分の素直さに、相手は歩み寄る。
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たとえ間違った道に踏み入れても、やりきるまでは終わらない。
たとえ間違った道に踏み入れても、やりきるまでは終わらない。 なぜなら、どんな道であれ、やりきることが最善だから。
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有様や在り方を変える必要はない。
有様や在り方を変える必要はない。 そもそもの神様から与えられた条件をごまかす発想に、良心はない。
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限られた者しか成功できない、というのは独善的で傲慢で支配的な自我の奴隷商人の言い分。
限られた者しか成功できない、というのは独善的で傲慢で支配的な自我の奴隷商人の言い分。 人それぞれに道があり、それぞれの形で成功する。 自分のかつての道、今の道、どの道も、否定することなく、そのすべての道で最善を尽くせ。 どこかの道で最善を尽くさず逃げて、その道を悪く言い、他の道を探したのなら、今のその道は間違っているし、そもそもそこに道はなく、脱線し続けている。 どこかの道で失敗しても感謝して学び内省するなら、次の道は正しい。 すべては自分自身の在り方。
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自分の物差しで他人を思いやれば、それは必ず悪心となる。
自分の物差しで他人を思いやれば、それは必ず悪心となる。
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誰かに従い学んでも成果が出ないのは、そこに自分の良心が無いから。
誰かに従い学んでも成果が出ないのは、そこに自分の良心が無いから。 あるいはその追従に良心が抵抗するから。 どちらにしても良心に従うなら、良心を大事に。 良心を捨ててでも成果が欲しいなら、その誰かに従うのみ。 誰かに従えば良心はない。 良心は自分自身の内にあるのだから。 従わず、助け合うこと。 そして助け合いに主従はない。 主従をうったえながら助けを求めるのは、良心を無くす。 いっときは美しく見えても、我が身を大きく見せるだけの、きりのない力への渇望だけの、無意味なこと。
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断られるのは、その内容ではない、そこに込められた自我が原因。
断られるのは、その内容ではない、そこに込められた自我が原因。 もしそうでなければ、断るほうの自我が原因。
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完璧を探しても目指しても叶わない。
完璧を探しても目指しても叶わない。 なぜなら、その自分自身が、永遠に完璧ではないから。 自分自身が、いつでも欠点や問題を生み出すから。 完璧を追わず、挑戦と希望をもって歩もう、そこに成長がある。 前に進み、問題と失敗があれば、そこから学び修正しよう。 はじめからそれを避けた完璧を追い求めれば、それでも問題と失敗は出てくるが、そこには学びも修正もなく、成長はなく、完璧ではないものに対する責任探しと後悔しか残らない。 この世界は常に変化するため、完璧なものは存在しない。 必ず欠けている点がある。 自然の法則のみが完璧に作用するが、それさえも欠点を探すのが、完璧ではない者の態度。 自分自身の考えや判断や希望する思い描く姿を完璧と思いたい自我があるから、そうなってしまう。 謙虚であれば、成長に向けた挑戦や希望を選び、失敗を嫌わず、成長してゆく。
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どんな物事にも、嫌な気持ち、敵視、嫌悪感で取り組んだり、指図してはいけない。
どんな物事にも、嫌な気持ち、敵視、嫌悪感で取り組んだり、指図してはいけない。 それは必ず、自他の良心を見えなくする自我の行いだから。 その物事に取り組んだところで、指図したところで、何の意味もない。 意味があるのは、自分自身の態度すべて。 それがあらゆる物事に影響してゆくし、生み出すのだから。
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集団にほ集団としての性質しかない。
集団にほ集団としての性質しかない。 個人の性質はない。 集団を見て個人の性質を判断してはいけない。 また、集団の性質を自分の性質と思ってもいけない。 国、地域、仕事、家族など。 集団の中でも疑念や反目は普通にある。 お互いの個人の性質を忘れることは、内省や思いやりや良心を忘れることになる。 集団の性質に良心はない。 集団の性質とは、そこにいる個人が共通して覚えていること、忘れていること、その集まりにすぎない。 どんなに偉大な集団であっても、それを取りまとめる長がとんなに偉大でたっても、自分個人の良心に反するなら、それらを蹴ってゆかなければならない。 それを忘れさせようという集団や、その長が、いかに美辞麗句を口にしても、いかに正しく力を誇示しても、その結果が良心に繋がらないのであれば、すべてごまかし。 でなければ小さな家族はおろか、自分自身さえ守ることはできない。 それができないことは、そこまでの命を紡いだ先祖ひいては人類の奇跡を守れないのと同じこと。 そこにはなにも価値はない。
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無礼打ちは、因果応報を早めるだけ。
無礼打ちは、因果応報を早めるだけ。 しかも新たな因果を生む。 それがなくとも無礼者はことごとく負の結果を生む選択を踏み、自分自身で不幸になってゆく。 いつまでも不平不満や不足を口にして、口をとがらせる。 いずれ周囲も希望を捨てて見放す。 本人の良心の不在が、本人をいつまでも不幸にさせる。