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説得は不要。

説得は不要。 いずれその道理のとおりのところへ行く。 そのときその道理による変化と成果物を与えられる。 そのとき気づき学ぶ。 そして受け取るべきものを受け取る。 そのとき受け渡せるように、また円滑にするために、背中からの介助のように、良心で生きること。 批判と無理な強要は不要。 愛されたい、欲しい、物足りない、という貧しい誤解を手放すこと。 そして言うべきことは言うこと。




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想像するなら全ての歯車を想定しなくてはならず、なおかつ見落としや過ちは多く、正しさはない。

想像するなら全ての歯車を想定しなくてはならず、なおかつ見落としや過ちは多く、正しさはない。 だが試行錯誤と学びと挑戦の経験は、断片的であっても、合間に噛み合う歯車を肌感覚で知ることになる。 これが真の想像だとも言える。 なぜなら見落としや過ちがあることや、正しさなどないことも、あらかじめ想像しているからだ。 そのときはじめて想像することが役に立つ。 未熟でいい、完璧でなくてもいい、進め。 必要なことはそのとき学ぶ縁に預かり、そのとき謙虚に学ぶのみ。 人は全てを学べはしないのだから。



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手段を選ばないのなら、どんな手を使って、ではなく、どの手を使って。

手段を選ばないのなら、どんな手を使って、ではなく、どの手を使って。 どんな手をという時点で、相手の術中で手段を選ばれている。 というより、自分の手段を殺されて、相手の手段ばかり輝いて見えて自信を奪われる。 自分の手段を忘れてはいけない。



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自分はどうなってもいい、とはならない。

自分はどうなってもいい、とはならない。 自分の親と先祖の、自分への想いにこたえて、自分も幸せでいること。 若者なら謳歌し、大人なら与えて受け止める母性と偉大さを育てて、自分という存在の最善をまっとうすること。 生まれてよかったと感謝できるのは、それをまっとうできる機会を与えてもらえて、それを実際にチャレンジすること。


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つもり貯金は、想像の中でさえも、それについて最善の全霊を尽くすこと。

つもり貯金は、想像の中でさえも、それについて最善の全霊を尽くすこと。 それについて偉大さを讃えること。 そしてそれを可能たかしめる世界にそれを任せること。 そうでなければ未練が残り、実際に手を出すことを選ぶ。 想像によって事の顛末までを見て、世界の果てまで届く想いが、放たれる。 それは花の香りのように。 それに嫉妬する者は、想像にすぎない幻想だと言うだろうが、この世界自体が幻想のひとときである。 忌み嫌う呪いではなく、偉大な創造のあらわれである。 それを讃えるのが、つもり貯金。 そして、それでもなお、あまるほどのものであれば、私にも実際に味わうときもあるのだろう、そんな微笑ましく見守る目線がそこにある。





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修行者の道と見せかけて、実はそうではないものがある。

修行者の道と見せかけて、実はそうではないものがある。 それは、家族を養うことを小さく甲斐のない繁栄だと教え、大きな繁栄を目指す夢を自我と欲望と愚かさだと教えること。 家族を捨てて、夢も捨てて、残るものは死を待つことだけ。 あとの全ては、そんな教えを訴える先生がいただく。 だが先生本人は気づかない。 死を待ちながらも、いただいたものによって自分が好きなことを味わうことに忙しい。 そうして自分好みのことばかり話す。 他の事は許さない。 そしてそれが一理あると訴えることに忙しい。 雄弁な者ほど見せかけだ。 一理あろうと、それは立つ側によっていくらでも見方が変わる。 その理の反対者もいるし、どちらの理も共に受け入れる者もいるし、ひたすら理を受け入れない者もいる。 雄弁で正義で完全無欠だと思えることほど、それは際立つ。 雄弁でなくていい、正義でなくとも、完全無欠でなくてもいい。 それが本来であり、それがほんとうの理。 理とは、主張するためのものではない。 理とは、そこにある事実の全てである。