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自分という存在と意識が、独りよがりでなくなるのはいつだろう。

自分という存在と意識が、独りよがりでなくなるのはいつだろう。 思うに、自我を手放すだけそれに近づく。 近づくにつれ、自我が愛したものへの執着の未練が、ぶりかえす。 しかしそれは捨てるものではなく、今もあるなら愛して感謝して、無くなるのならやはり感謝する。








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恐れという言葉を使うこと自体が、自身の恐れを指している。

恐れという言葉を使うこと自体が、自身の恐れを指している。 それを他者に指摘する形にすれば、他者に恐れを植え付ける。 そして解決を奪うかたちで、解決を牛耳るように、人を集めて、離さず、命を奪い続ける。 見えない知らないものを、無いと言い、それでいて見えない知らないものを売る。 良心が求めるものは、見えない知らない、しかし求めてやまない。 それを自我は否定し、自信を奪う。


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故人を想い、そこにある大切なものを抱いて生きるか。

故人を想い、そこにある大切なものを抱いて生きるか。 しかし故人がそれを求めながらも志半ばに終わったなら。 残されたものがそれを受け継ぎ果たす。 ゆえに自身そしてすべての内にあるそれを自覚して、感謝すること。 目を閉じて行えばそれは不可思議に夢想するだけ。 しかし目を開けて生きて行えば、それは現実的かつ実践的。 このような変化を生み出す力は、なによりも生きることが勝る。 現実を生きることが最初にある。


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方法や力が何かをするのではない。

方法や力が何かをするのではない。 方法や力がある目的なのではない。 悲願がはじめにあった。 それが源となって突き動かしている向かわせる先があった。 そこから実践的なものを探したり考えたり作り出したりした。 それが無数の生を橋渡しさせて、縁を経させた。 気づくべき真理などない。 学ぶべき教えなどない。 得るべき徳などない。 それらは全て、私たち全ての中に血潮のように、有り続け、行き渡り続け、動き続け、向かい続けている。 そこにある悲願が私たちを通して、あらゆる言動に移される。 だからこその、形を持たされたものがあるに過ぎない。 真理、教え、徳、悲願、そして救い、これらに関するもの。 だからそれが唯一でも最高でも最大でもない。 実践的なものは、いくつの角度や光特性や特徴に分類され、その組み合わせが良いほど実践的である。 そしてすべては同じところにたどりつく。 要がそこにある。 身体に四肢があるように。 どれかひとつにこだわれば、いずれそれ以外を忘れて、生ける屍と変わらない。 方法を目的にしてしまったこと。 それを逃避と言う。


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問題をわからなくするのが自我。

問題をわからなくするのが自我。 自我の強さのぶんだけ長くかかる。 自我はどこからら来るか。 神を見失ったところから。 それは長い年月をかけて、何代もかけて、見失われた。 それだけの問題の数や大きさが積もっている。 そこから帰る旅は苦しみの連続となる。 それは神からの愛。 感謝しなければその愛は無駄になり続ける。 しかしそれでも与えられる。 それが愛。



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ひとつの道で学べという教えは、その先の無形のすべてに通じる真実にたどり着くためにある。

ひとつの道で学べという教えは、その先の無形のすべてに通じる真実にたどり着くためにある。 他の道の優劣や満ち欠けを比べたりするためではない。 10年のうちにそれが現れなければ、その道を自分の自我の上を歩んでおり、何も学べていない。 その道の行いの実践の力を、自我の都合の刺激として受け取り続けるだけ。



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生まれたばかりの姿、母を求める幼い姿。

生まれたばかりの姿、母を求める幼い姿。 自我に夢中な若い姿、苦労を知る大人の姿。 寛容を知る老いはじめの姿、在りし日を思い馳せ寂しがる姿。 同じ者でも異なる姿を持ち、比べれば喜怒哀楽がある。 どの姿が本当の姿か。 一方で、生まれる前から、生まれたあとから、変わらない意識が続く者がいる。 ほとんとがそれを忘れて、いろんな姿を生きる、その意識。 願わくば、なるべく、その意識でもって、いろんな姿にあるとき、感謝して生きたいもの。 そして、せめてそれを忘れている人たちのために、まず自分からそれを思い出し、あるいは維持して、愛を持って生きること。