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不変を証とする者は、変化が普遍であることを知らない。

不変を証とする者は、変化が普遍であることを知らない。 継続を証とする者は、背を向けて遠ざかっているのを知らない。 習慣を証とする者は、生の終わりの先にも続く法を知らない。 他力を証とする者は、そのこだわりこそが自力であることを知らない。 対立の勝利を証とする者は、対立する者同士が自分の自我に負けていることを知らない。 同業他社を批判し我こそが正しい証とする者は、それが自分の鏡であることを知らない。 見えない白黒つかない曖昧さを証とする者は、見えず好き勝手に描けないからこそ厳格な白黒がつくことを知らない。 末法の世において、不変で継続して習慣となるこだわりで、同業他社を批判して、白黒につけずに曖昧でいることは、法を伝える者と見えて、実際は、法とは真反対の姿を見せる、末法そのもの。 幼い子が見せる瞳の命の輝きが、そうして曇ってゆき、迷い続ける姿を、人の真実の証とする者。 人々がそうなっていってくれたら、その者の自我のための証が続けられる者。 神や仏の名を使ってでも、自我の証を求める者。 また、そのような組織に属する者。 鏡を見ても、顔の汚れを破壊することすら、否定しなくてはならない、強いしがらみのなかにいる。 正してゆくのは、正した行動の努力という変化。 だかしかし否定と破壊を間違えて、伝統が持っている創造的な力を失って、間違いを上塗りしていくことから、抜け出せない牢獄にいる。 それでいて、なんとかしたいと、もがく無限の地獄にいて、その苦しさから、人の足を引き込むことしかせず、それを信じたくもない。 そういう闇の面。 それでも全てを手放して、本当のことを知りたいんだと、一歩を踏み出すから、偉大なんだと思います。 それが自力の努力の一歩であり、生きている間だからこそ行動できるという、他力でもたると思います。 そういう、光の面。 自力か他力は、どちらも同じで、どちらも邪魔するのが、自我の見栄だと、思います。 そのうえで、あえて和することは、変化を許される者として評価され、小さな革命を一歩一歩、生きて行ける、赤子のころに授かった、生気の笑みなのだと思います。 すべての宗教はみんな同じだと思います。おなじ光を原点にしたけど、次には人の自我のために、背を向けて、同じような闇を作り出していったという点が、同じだと思います。 どれかが特別ということはなく、それぞれのどの部分が、名前や組織や集団や権力ではなく、大切なことのために実践的かどうかだけ。 吉凶善悪明暗が混じっていても、色んなものが合わさって機能している。 その機能の中で何が成されていくのか、恥ずかしくないことか、それが良心を試されるということだと思います。 AIには勝てないことだと思います。


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白黒つけるのを良しとしない、曖昧にするのを良しとしない、とちらも自我のためにしていればのこと。

白黒つけるのを良しとしない、曖昧にするのを良しとしない、とちらも自我のためにしていればのこと。 白黒つくものはつくし、曖昧になるものはなる。 その繰り返しが成長と良識への歩みである。 どちらか一方だと偏ることもまた自我。 主張として凝り固まっていくことと、真実の揺らぎのなさは、別物。




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他者の善徳を自分の力だと思い、自分の選択結果を他人の力だと思う。

他者の善徳を自分の力だと思い、自分の選択結果を他人の力だと思う。 末法とはこのように真逆となる。 法は動かずそこにあり、末法はそこから離れること。 その背を向けることが真逆を見せる。 法と末法は対立していない、それは親子関係のようなもの。







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本人の問題点を指摘して、正解や善なる道を外の世界に求めさせることは、人の神と良心と命とを雲隠れさせる。

本人の問題点を指摘して、正解や善なる道を外の世界に求めさせることは、人の神と良心と命とを雲隠れさせる。 それが信仰の光ではなく、宗教の闇。 信仰は自灯明、宗教は他者の手に引かれ続けることが組織的に行われる。 その他者の癖や至らなさを受け取り続ける。



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すべての宗教は共通している。

すべての宗教は共通している。 共通した真実をそれぞれの角度から感得し説いた者の名を冠していること。 感得できない者による不要な迷いの解釈が肉付けされていること、 真実を求める本心を慣習に結びつけた権力に変えて利用されること。 またそれにより実践性が薄まること。 誤りが増えていること。 ひいては自我の住処になること。 長く続くと逆転する。 それは発端となった者の弟子の時点で、始まる。 そこから長く続くほど、離れて行く。


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問題を指摘されて、何かの対比や対立や比較に話をもってゆくとき、人は自分自身の問題から逃げている。

問題を指摘されて、何かの対比や対立や比較に話をもってゆくとき、人は自分自身の問題から逃げている。 当事者であることから逃げようとする。 客観視のつもりでいて、じつは当事者であることから逃げる。 その場から逃げて、外野から評論家分析してしても、そこに自分自身がいないのだから、客観視ではない。 指摘してくれたものこそが客観の主人。 あるいはその場で鏡を見ること。 自分の自我の衣を脱いで、その場に置き、別なものを着てみること。 こだわる自我は強いほど、学者の知識をふりかざす。 そこに純真な、当事者としての生気はない。 ゆがんだ自我がそこにあるのみ。 抜け殻のように。 命から逃げている。