方法や力が何かをするのではない。
方法や力がある目的なのではない。
悲願がはじめにあった。
それが源となって突き動かしている向かわせる先があった。
そこから実践的なものを探したり考えたり作り出したりした。
それが無数の生を橋渡しさせて、縁を経させた。
気づくべき真理などない。
学ぶべき教えなどない。
得るべき徳などない。
それらは全て、私たち全ての中に血潮のように、有り続け、行き渡り続け、動き続け、向かい続けている。
そこにある悲願が私たちを通して、あらゆる言動に移される。
だからこその、形を持たされたものがあるに過ぎない。
真理、教え、徳、悲願、そして救い、これらに関するもの。
だからそれが唯一でも最高でも最大でもない。
実践的なものは、いくつの角度や光特性や特徴に分類され、その組み合わせが良いほど実践的である。
そしてすべては同じところにたどりつく。
要がそこにある。
身体に四肢があるように。
どれかひとつにこだわれば、いずれそれ以外を忘れて、生ける屍と変わらない。
方法を目的にしてしまったこと。
それを逃避と言う。