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自我のために他者の不正不義を責め叩く者は、自身も不正不義を行なっている。

自我のために他者の不正不義を責め叩く者は、自身も不正不義を行なっている。 その指摘に耳を貸さず、目で見て責め叩く。 叩きかたは、それぞれその行いの形や区分が違うだけ。 他者の頭を一方的に叩く者には、どんな声も届かない。


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慣れた価値観や条件の積み重ねに閉じ込めるリメイクや続編と反対のベクトルで好き。

慣れた価値観や条件の積み重ねに閉じ込めるリメイクや続編と反対のベクトルで好き。 静止状態よりは。 エッグマンとか他要素が閉じ込めにならないか心配。 現実世界で超高速でミサイル持ってヒャッハーしてるのが青空に突き抜けてくソニック的でいい。 この世界でそれやるにはこのくらい筋肉は欲しい。


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すべては必要から動き出す。

すべては必要から動き出す。 他者に憧れ、そそのかされ、羨み、無理に動かそうとすれば、浪費となる。 自分は何するものかを常に問うこと。 世界が自分に求めるのか、自分が与えて満たす世界の不足のために求めるのか。 ただ自分のためになら、動き出すことはない。






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自分の内なるものを見失い、外に探し始める。

自分の内なるものを見失い、外に探し始める。 でもそれでは見つからない。 学問、宗教、他との争いに答えを求め、自分こそが答えだと戦う。 たしかに自分こそが答えだが、自分が外に向けているものにはない。 自分の内なるものにある。 こうした内外のやりとりの両方を体験することで、現実を体験できる。 鏡を見るように。 外にあるものは自分が選んだものを写す鏡のようなもの。 内なるものを知る顔が写るか、争いと戦いを外に追いかける顔が写るか。 外に追いかけるなら、自分が外に追いかけたい部分しか認識できない。 相手を小さく見るのは、小さなものを外に求めるから。 相手を大きく見るのは、大きなものを外に求めるから。 内なるものを知るなら、大きなものを抱いているのに小さく留ってしまっていることへの、憐れみ、思いやり、助け合い、支え合い、が見えてくる。 逆なら、それは見えてこない。 人は、外に見たいものを求めて選択している限り、認識は偏り、全てを見ていない。 内なるものが世界を見る主人。 その主人が不在では、偏った認識にとらわれてしまう。 自分こそが答えだと、外に向ける、その過ちをあきらめ、争いと戦いを、許し、手離してみる。 そのとき主人からの認識が邪魔なく伝えられる。


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神様のことよりまず自分、というが、本当にそんなに大変か。

神様のことよりまず自分、というが、本当にそんなに大変か。 それまでたまたま楽をできただけで、本来は必要な苦労ではないか。 それは本当に底辺か。 自分の都合や楽や、逃げたがる心を優先したいから騒いで、ひとりでに悩み苦しんではいないか。 エゴが強くないか。 それを解き明かすのが、神様のことを知ることでもある。 それを阻むエゴを手放すことから始まるからである。