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苦しいとき、一人でやりきろうとするとき。自分とだけの向き合いは極まる。

苦しいとき、一人でやりきろうとするとき。自分とだけの向き合いは極まる。 快楽や願望には身を委ねられる。 憎しみや敵対心には身を委ねられる。 どちらも自分以外の何かに身を委ねている。 しかし苦しみや悩みには身を委ねられない。 もうひとつある。 誰かを助けるために身を委ねるとき、それは自分以外のなにものにも委ねては成り立たない。 内在の神との向き合い、そしてその神と共に生きることは、そのとき起こる。





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目に見えることは、目に見えないことを存在証明している。

目に見えることは、目に見えないことを存在証明している。 変化は、不変を存在証明している。 目に見える変化を生きる有限の私たち存在は、目に見えない不変のあらわれを証明している。 見えず変化しようもなく存在せず、有り得ず無であるからこそ、ゆるぎなく確信される真理と真実。 いかような形も変化も、それゆえにあるとして赦し慈しみ受け答え尽くす、そのあらわれ。 有り難く感謝して、最善を祈り願わずには、行わずには、いられない、有限の存在。 良心は、善を積むことによる見返りの結果目的の理屈から選択される行動ではない。 良心は、善そのものが、有限の存在となれていることへの感謝から湧き出る、存在理由として直感する、原動力と指針から生まれる自然の行動。 そして、それらを奪う行為を避けて、それらを取り戻す行為に動く、良心から来る善悪の判断はここにある。


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自分と他人の双方への善となることを行うことが、自我のない善行。

自分と他人の双方への善となることを行うことが、自我のない善行。 他人に依存した善行は、自分の行いを変革することはない。 自分への善という、変革の土台を育まないがために。 自分への善とはまず、その命に感謝すること、ひいては先祖供養のこと。 他人への依存や、ひとつの行いに専修することは、その土台を見失わせる行いを増やして行く。 文書にしたためたところで、都合よく解釈され付け足され、実践的な行いよりも、権力の維持体制を壊さないための教条主義を生む。 どのように手を尽くしても、そうなる。 これが末法。 死後の救い、生きている間の救い、自我はこればかりを求める。 生まれたことの救い、今度ばかりは過去の悪行の因果を善へと果たそうとする、命を与えた、または得た、魂を預かっていることの感謝。 そのために今も生かされて、自分に関わる霊魂を救う鍵を握る存在として行動できることの貴重さと偉大さの感謝と、せずにはいられないという、生きる努力。 1人の想いの力を大きく作用させる法の存在への気づき、それは1人の善行が多くの人の心を打つことと似ている。 縁起とは、一対一ではなく、一対多でもある事実。 これが時間と距離と物質の制限を受けない霊魂の世界では、大きく拡大すること。


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末法の世においては、ひとりのスターが法を持ち帰る。

末法の世においては、ひとりのスターが法を持ち帰る。 しかし末法の世の行いは、人々がいずれそのスターと法のまわりに不要なものを足して行き、本来の法が見えなくなり誤解もされる。 末法の世によってそれが極まったとき、人々は外にいるスターにも法にも頼れなくなる。 残すは自身のみ、自身に求める以外にない。 それが本来の法のありか。 ひとりのスターは、それに気づかせて、すべての人を救うものを探し求めた。








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人は、感謝していないものには、近づいたり触れたりはしたくない。

人は、感謝していないものには、近づいたり触れたりはしたくない。 見たくもない鏡のように。 自分に感謝するという本当の自信があれば、あとはその自分は、どんなものにも近づき触れて、見られるうちに見る、そんな一期一会の奇跡を感謝するだろう。