問題を指摘されて、何かの対比や対立や比較に話をもってゆくとき、人は自分自身の問題から逃げている。
当事者であることから逃げようとする。
客観視のつもりでいて、じつは当事者であることから逃げる。
その場から逃げて、外野から評論家分析してしても、そこに自分自身がいないのだから、客観視ではない。
指摘してくれたものこそが客観の主人。
あるいはその場で鏡を見ること。
自分の自我の衣を脱いで、その場に置き、別なものを着てみること。
こだわる自我は強いほど、学者の知識をふりかざす。
そこに純真な、当事者としての生気はない。
ゆがんだ自我がそこにあるのみ。
抜け殻のように。
命から逃げている。