他者の欠点や過ちを指摘して正そうとしてと、本人が自分で気づいて解決してゆくもの。そのときは指摘されたことなど気にも留めない。 何故ならその解決の苦労は本人が背負うのだから。 同じことが自分にも言える。 まず自分のことを解決しなくては人生は改善しない。 他者の人生に首を突っ込んではならない。 また自分もそれを期待しないこと。 指摘されたらいったんきちんと受け止めて素直に参考にして、それが良心をと事実と反するなら、丁重に断り手放すこと。
月別: 2018年3月
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ささやかな日常にこそ真理はある。
ささやかな日常にこそ真理はある。 日々をささやかに努めて淡々と生きる者ほど、真理に近い。 自覚、無自覚に関係なく。 ただし自覚があれば失いにくい。 ささやかさに疑問を感じて野望にいきても、戻ってこれる。 戻ってこずに、昔は自分もそう努めたから知っていると豪語する者は、戻ってこれない末路に落ち込み、その豪語するハリボテで人を食い物にする逃げ道へと落ち込んで、それに気づかないだけ。 その無垢に見える華やかさの裏には、光の当たらない腐敗した泥のような未解決の歪みが充満している。 その毒気で神聖な夢に溺れてはいけない。 近づいてもいけない。
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下ばかり向いてもいけない、上ばかりでもいけない。
下ばかり向いてもいけない、上ばかりでもいけない。 前ばかりではなく、左右に後ろにも、気づかない様々な小さいものまで色々とある。 ささやかなことにこそ多様性がある。
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愛されても愛されても、愛は足りなくなる。
愛されても愛されても、愛は足りなくなる。 愛された子供が、なにかの拍子に、不幸の最中で寂しい日々を生きるように。 誰もが、自分を愛することが答え。 そしてそれを隣人と共に教え合い、称え合うこと。 姿勢を見せ、ときには見せられて、いつしかその姿勢は一人でもできるようになってゆく。 しかし自分を愛するとは、自分を価値あるものにし、活かすこと。綺麗な花を育てて愛でて、またそれが種となり、その種をまた蒔くように、自分の善行を世界に向けること。 常にその力が沸き続けるこの命をもたらし助けた先祖や周囲を胸の内に宿し、いつも守られて愛されているということ。 その数少ない可能性を一つ果たせたことの美しさを素直に感謝すること。
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良心には、他人よりも良い悪いはない。他人より強い弱いもない。
良心には、他人よりも良い悪いはない。他人より強い弱いもない。
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学びたいときとは、それについて自信が無いときでもある。
学びたいときとは、それについて自信が無いときでもある。 だが本来、学びとは、取り組むことが必要なとき、取り組むことで、もたらされる。 それをすでに通った古人の教えを参考にできるのも、その事態に対処するときに限る。 事態が来ることを恐れるために使えば、それは恐れを無尽蔵に増やし、自信を失わせる。 それは良心を疑わせる。 どんな知恵や知識も、良心には敵わない。 良心は、そもそも何のために、何を為すのか、それを想うもの。 知恵や知識はそのために選ばれるのみ。 それはただ純真な光そのもの。 良心と異なることには、その光を見失ってゆくという憐れみに慈悲を感じるのみであり、粗暴な断罪とはならない。 自信はそうした、溢れんばかりのものが自然と満たすもの、それが最初から有ると気づくこと。 力で勝ち取るものではない。
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ずっと守られている者は、守られている中で、与えてもらうことでしか、働けない。
ずっと守られている者は、守られている中で、与えてもらうことでしか、働けない。 守るものを作り、与える側には、なれない。 いざというとき身を守ることが、できない。 仲間を守るための物事のを生み出す成り行きも、考えられない。 取り分が餌箱に用意されていて、欲求できると信じ込んでいて、それを損ない壊す行動に問題がないと、思い込んでいる。
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失敗を指摘されて相手の失敗を指摘し返すのは、相手が次の時には学び成長してゆくことを否定している。
失敗を指摘されて相手の失敗を指摘し返すのは、相手が次の時には学び成長してゆくことを否定している。 自分自身がそうだからこそ、指摘されても跳ね除け、相手も同じだと決めつける。 いつまでも相手の失敗を許せないのは、失敗しか目に入っていない。 失敗は自我の結果。 失敗を許せないとは、いつまでも自我を変えたくないこと。 自分の失敗も許せず、それを受け入れず否定して、避けて逃げようとする。 失敗は、取り組む前には、最小限にとどめるよう努めること。 失敗したなら、学び次へと生かすこと。 その一本道から逃げれば、後ろ向きになるしかなくなる。 後ろ向きは、自分のことだけ考えているときにしか、できない。 なぜなら万物は皆、前向きに生きるために、ここに在るのだから。 それでもなお仲間を探すのは、お互いを自我の道具としてしか見ない、不誠実な関係。 親なら、子がそうして甘えてきても、慈悲と親心で厳しく躾ける。 さもなくば親でさえ、誰かが成長しようものなら、足を引っ張り、恫喝し、怨み、妬む。 正しくありたいなら、その仲間にも入れず、ひたすら孤立するのみ。 だがまだ、孤立することで自分を見つめられるが、それができるなら失敗もまた生きているからこそと感謝して愛し、受け入れ許せている。 失敗への態度ひとつで、ここまでの迷路が生じる。 それは歪んだ姿勢、それが自我の強い者の実状。
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愛に利害も取引もない。
愛に利害も取引もない。 愛はただ無条件に与えるのみ。 そこに条件があれば、即座に愛ではなくなる。 つまり愛ではなくなる動きに気づいてゆけるような静けさを保つ方法は、愛で生きることのみ。 あえて無理に与えようとすれば、そこには期待する交換の条件が生まれる。 自然の泉や花が、その存在として当然であるかのように無心で湧き立ち咲き誇り香りを放つように、常に自分自身の当たり前の良心を核として生きること。 そこからは香りが立つ。 蜜蜂は断っても寄ってきて、花粉を身につけて授粉を手伝うことになる。 自然が完璧な循環を成り立たせる。 それは交換ではない。
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評価される奉仕には二種類ある。
評価される奉仕には二種類ある。 充足する者からの、ありふれる安定して持続する奉仕。 無理をして依存の、すり減らす不安定で短期的な奉仕。
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自分と他人を比較し不満を抱く者は、まず自分がどれだけのものごとに恵まれ、他者には無いものごとを得ているか、洗いざらい、述べ挙げて、感謝すること。
自分と他人を比較し不満を抱く者は、まず自分がどれだけのものごとに恵まれ、他者には無いものごとを得ているか、洗いざらい、述べ挙げて、感謝すること。 すると、人はみな、とにかく驚くほど違っていて、比較などできないことが、わかってくる。 それでもなお生かされるための共通項に不備があれば、それを助けてもらうか、自分で変えて補うしかない。 これをせずに、助けを求めていれば、周囲から際限なく奪い取り足を引っ張るだけ。 そしてそんな弱々しさでは、自分で変えて補うことなど、まず無理なこと。 生かされているだけで感謝、ここがまず最初。 これがない不満や疑問は、すべて我儘な自我の産物でしかない。
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上段から物事を教えてやろうという者は、ただ語りたい自我の独り言を満足させたいだけで、なにもわかってはいない。
上段から物事を教えてやろうという者は、ただ語りたい自我の独り言を満足させたいだけで、なにもわかってはいない。 なぜならそもそもその教えは自分のものではなく、与えられたものだから。 そのことすら学べない者に、何も教えられはしない。 そのような者は、自分にはないものを否定して、自分にしかないものを主張して、ごまかしの優位を見せることで、不当な対価を集めようとしているだけ。
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少数の夢と欲のために何かを集めようとしても、多数が犠牲となる。
少数の夢と欲のために何かを集めようとしても、多数が犠牲となる。 多数のための欲は多くの実現を必要とし、それらが少数の夢を叶える土台となる。 単身で海外の仕事に行きたいなら、現地でパートナー探しが待っている。 現地の法律、医療や保険の体制、もろもろの土台は、来訪者には満足に与えられない。 自分の国で、制度や社会的な仕事により多数のための夢が生み出された多くの実現が、すでに土台を与えてくれている。 そのために海外へ行く必要も出れば、その土台が支えとなる。 個人の欲は、多数のための貢献すら嫌い、土台を築く負荷とご縁を嫌い、逃げようとする。 そうして得られない土台のぶんを、人柱を立てたり、奪い取り搔き集める発想にしか、ならなくなる。 このような者には、たとえ優雅でも。近づいてはならない。 その優雅は血塗られていて、近づく者は同じく多数を血祭りにあげるか、自分も奪われる側にしかならない。 その先にあるのは、土台なき飢え。 そしてこれを、繰り返す。 それは奈落の底に人々を誘惑して、食い物にするようなもの。 近づいてはならない。
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過ぎ去ったものごとや人物にも、感謝を送ること。
過ぎ去ったものごとや人物にも、感謝を送ること。 すると、得られなかった愛がやってくる。 愛は時と場所を超えるから。
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生きている者だけが、自分を救えて、他人も救える。
生きている者だけが、自分を救えて、他人も救える。 生きている者、すでに亡くなった者、両方を救える。 現世に生きている限り、具体的な行動を起こせるので、変化を生み出せる。