学びたいときとは、それについて自信が無いときでもある。
だが本来、学びとは、取り組むことが必要なとき、取り組むことで、もたらされる。
それをすでに通った古人の教えを参考にできるのも、その事態に対処するときに限る。
事態が来ることを恐れるために使えば、それは恐れを無尽蔵に増やし、自信を失わせる。
それは良心を疑わせる。
どんな知恵や知識も、良心には敵わない。
良心は、そもそも何のために、何を為すのか、それを想うもの。
知恵や知識はそのために選ばれるのみ。
それはただ純真な光そのもの。
良心と異なることには、その光を見失ってゆくという憐れみに慈悲を感じるのみであり、粗暴な断罪とはならない。
自信はそうした、溢れんばかりのものが自然と満たすもの、それが最初から有ると気づくこと。
力で勝ち取るものではない。