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この世界は黄昏の世界。

この世界は黄昏の世界。 常に宇宙の自然現象が起こっては変化して終わりゆき、また起こる、そんな最中。 我々はその最中にいて、またその一部。 夕焼け、斜陽、それは奇跡の色合い。 それは次の奇跡をはらんだ母とも言える。 悲しまず、寂しがらず、陽たけではなぬ陰も大事。 ともに感謝して愛すること。



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過去の自分に、今の自分を追い越させるといい。

過去の自分に、今の自分を追い越させるといい。 そうすれば全ての経験は未来へと活かされ、後世の光の一部となる。 過去のすべてが今を生み、その今が未来を生む。 何千日の過去、1日の今、そしてまだわからない存在しない未来。 過去が圧倒的に比率が高いことを忘れてはならない。 そのすべてを感謝して、1日をその瞬間を感謝して生きれば、未来には後悔する姿はない。


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一万人に囲まれた者でも、耳元で囁かれたとたん、孤立した個人になる。

一万人に囲まれた者でも、耳元で囁かれたとたん、孤立した個人になる。 そうして一万人に語りかける者がいる。 その言葉に惑わされてはならない。 人を孤立させ、内なる神を見失わせ、そのかわり自らが神となろうとする邪だと知ること。 そのような者に近づいてはならない。



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入れ替わる多くの人に関わり続けると、自分の変化に気づく人はいない。

入れ替わる多くの人に関わり続けると、自分の変化に気づく人はいない。 末長くご縁を大事に多くの人に関わり続けると、自分の変化に気づく人がいる。 そうして人は自分の見えない背中に気づかせてもらえる。 内観や客観は自分では不可能。 やっているつもりの偉人になったつもりでしかなく、そうして教え込む物事も、他者に慢心しか教えることはできない。



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偏見や批判ばかりする集団に、正しい見解や真実はない。

偏見や批判ばかりする集団に、正しい見解や真実はない。 なぜなら、正しい者はそこでわざわざ主張して疲弊するくらいなら、別の者のために正しいことを話し伝えて、働くことを選ぶから。 そして社会では、そちらが採用される。 しかしその集団が社会的な実害となれば、いつか制裁を与えるために、自然の因果応報がやってくる。 それまでは各自、そのようなものごとには近づかない、関わらない、信じないこと。 偏見や批判ではなく、良いところを見つけようとする自分自身で確認するか、すでにそのように確認した者に聞くこと。 あるいは、そうした者が集まる社会性のある評価を参考にすること。


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個人の夢のための行いは、全体のためにはつながらない。

個人の夢のための行いは、全体のためにはつながらない。 全体のために良いことを思い、そこから個人の夢とすること。 でなければ、いくら良いことを言っても、そこには理の欠けがある。 偉人の格言をいくら挙げても、目をそらすだけで、その欠けは埋まらない。 その欠けたままの理で人を扇動、先導する者に、近づいてはならない。


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相手に合致しない物事を教えても、想定通り学び取られることはない。

相手に合致しない物事を教えても、想定通り学び取られることはない。 それを相手の不勉強としてはならない。 教える側の不勉強から来る想定不足にすぎない。 しかし学び取られなくとも参考にはなる。 そしていつしか、活かされるときが来るかもしれない。 教えるということは、意図的な活かされ方を想定できない部分も大きい。 期待どおりの成果が出ないからと、相手のせいにして、想定内として汲み取れないのは、教える側の経験不足、視野の狭さでしかない。


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個人の力や資産の大きさは真実の根拠にはならない。

個人の力や資産の大きさは真実の根拠にはならない。 その力を、大勢で成し遂げて、大勢が食べてゆけるように展開できる力ならば、それは誰もが学び実践すれば効果を出せる知識と知恵、多様性が生かされる人間性、といった真実がある。 個人を根拠にした知識や知恵は、ごく稀の例外則で成り立つ。 例外則とは、無自覚のままである。 展開ができないし、学べず、実践も出来ない。 大勢に伝えても効果を出せるのは稀な例であり、真実の根拠にはならない。 大勢から集金するための宣伝広告塔にはなる。 そのようにして広告塔を使って人を集める者に近づいてはならない。 なぜならその広告に憧れたところで、それを身につけることはできないし、そもそも売り物にしたい物事は別に隠して用意されている。 そうして裏で用意して、人を集めて物事を教えてお金を取る者に、近づいてはならない。 本当なら、物事を教えるのはその展開を助けてほしいからであり、むしろ給金して教えるものである。 さらに、それを土台したうえで、特殊技能は育ってゆく。 その土台で育たず、その土台では教えられない特殊技能の教育は、外部から取り込む、また外部に委託するものであり、これの給金は、やはり助けを求める側が、学ぶものにかわって肩代わりするものである。 これは無自覚の例外則とは異なるが、無自覚の者はこの基本的な違いを、同一視してしまう。 無自覚の例外即で資産を築いた者は、無自覚に人柱を糧とする。 個人の資産を自慢して力を見せつける者は、奪い続ける盗人であり、近づいてはならない。


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特定分野の集団に、人間性は無い。

特定分野の集団に、人間性は無い。 各自の得意と苦手が、活かされ合うことがない。 ひとつの分野でのみ評され競われ、その分野で活かしきれない者、不遇な者は、不勉強の不能者とされる。 本来は評される活かすべき、大切でかけがえのないものを犠牲として、差し出し続けることになる。 お金、家族、真の人間関係、社会性を損なってゆく。 そこに人の理解は無い。 つまり、ほんとうの仲間の協力もそこにはない。 お互いを監視して逃げないよう束縛する恐怖しかない。 監視されて見捨てられて協力が得られなく不安しかない。 支配者は自分自身の特定分野や狭い視野でしか世界を見ることができない。 どれだけ世界を渡り歩き、多くのものを従えようとも、それは奴隷を集め、集金するためにすぎない。 そのような集団、その支配者に、近づいてはならない。 ことば巧みに、輝き眩しい個人の力に、信じさせる力があっても、それは惑わしにすぎない。


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相手の失敗とつとは、周囲すべて巻き込み責め立てて相手を切り捨てるほどのことなのか。

相手の失敗とつとは、周囲すべて巻き込み責め立てて相手を切り捨てるほどのことなのか。 であれば相手の善行ひとつで周囲すべて巻き込むほどの利益を相手個人一人に集めなくては、その理は成立しない。 だがそうはならない。 相手を攻め立てる気持ちは小さなものでしかない。 それをいつまでも握れば、その小さな人生としかならず、その滞り、ちぢこまりを、周囲にも強いることになる。 それは目には見えないが、周囲から多くを損なわせることになる。 周囲から笑顔を奪う腫れ物のような行為は、何ひとつ利を生まない。 相手を責めるのなら、孤島でやるといい。 そうすれば自分しか責める相手がなくなり、そうした未熟さを内省して成長することにもなる。 しかしそれは無理なことだから、相手を責めることなく全力を尽くすしかない。 どこかで逃げている限り、そこに正当性は皆無。


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真に幸せで恵まれていることとは、自分自身を活かして役に立てているとき。

真に幸せで恵まれていることとは、自分自身を活かして役に立てているとき。 しかし、どんなこともやってみなければ、活かせる経験も積めないし、自分では知らなかった一面を開花させて活かすこともできない。 向き不向き、合う合わない、それは存在しない。 逃げなければいい。 逃げるだけの実害がない限り。 不幸で恵まれないと不満に思い逃げる前に、じぶんがどれだけ現状を受け入れて、肯定的に頑張ってきたか、振り返るといい。 もし消極的であったなら、その場でいつも自分を活かせず役にも立てず、小さなことすら困難に感じているだろう。 それら困難を肯定的に愛して受け入れて前向きに挑戦して、そのうえでわかるのが、実害の有無。 自分の自我の妄想で、自分の力不足、被害、合う合わないや善悪を決めつければ、それがいちばん有害な罪作りとなる。