事実を受け入れて前倒しすることは、最善に近づく。 たとえタイムスケジュールが決まっていたとしても、その時をどう迎えるかも変わると言える。 なぜなら考える時間や立ち止まる時間が作れるから。
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説得は不要。
説得は不要。 いずれその道理のとおりのところへ行く。 そのときその道理による変化と成果物を与えられる。 そのとき気づき学ぶ。 そして受け取るべきものを受け取る。 そのとき受け渡せるように、また円滑にするために、背中からの介助のように、良心で生きること。 批判と無理な強要は不要。 愛されたい、欲しい、物足りない、という貧しい誤解を手放すこと。 そして言うべきことは言うこと。
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欲の執着のように愛する者を思い出すなら、奪うことしか知らない。
欲の執着のように愛する者を思い出すなら、奪うことしか知らない。 奪う快楽を共有したい者を求めるのも同じこと。 愛する者には与えて求めないこと。
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馬鹿馬鹿しいことは、人生の中心から外せばいい。
馬鹿馬鹿しいことは、人生の中心から外せばいい。 そうすればただの雑談のネタにもならない通りすぎる粗末なことだとわかる。
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想像するなら全ての歯車を想定しなくてはならず、なおかつ見落としや過ちは多く、正しさはない。
想像するなら全ての歯車を想定しなくてはならず、なおかつ見落としや過ちは多く、正しさはない。 だが試行錯誤と学びと挑戦の経験は、断片的であっても、合間に噛み合う歯車を肌感覚で知ることになる。 これが真の想像だとも言える。 なぜなら見落としや過ちがあることや、正しさなどないことも、あらかじめ想像しているからだ。 そのときはじめて想像することが役に立つ。 未熟でいい、完璧でなくてもいい、進め。 必要なことはそのとき学ぶ縁に預かり、そのとき謙虚に学ぶのみ。 人は全てを学べはしないのだから。
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どんな才能も、助け合うなかで使わなければ、難解で複雑怪奇からまった糸のように、多くの問題を生むだけでしかない。
どんな才能も、助け合うなかで使わなければ、難解で複雑怪奇からまった糸のように、多くの問題を生むだけでしかない。 それは才能の使い方として利口ではない。
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手段を選ばないのなら、どんな手を使って、ではなく、どの手を使って。
手段を選ばないのなら、どんな手を使って、ではなく、どの手を使って。 どんな手をという時点で、相手の術中で手段を選ばれている。 というより、自分の手段を殺されて、相手の手段ばかり輝いて見えて自信を奪われる。 自分の手段を忘れてはいけない。
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内なる神という言葉を使えば、それは悪神にもなる。
内なる神という言葉を使えば、それは悪神にもなる。 内なる良心という言葉を使えば、それは良神となる。
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自分はどうなってもいい、とはならない。
自分はどうなってもいい、とはならない。 自分の親と先祖の、自分への想いにこたえて、自分も幸せでいること。 若者なら謳歌し、大人なら与えて受け止める母性と偉大さを育てて、自分という存在の最善をまっとうすること。 生まれてよかったと感謝できるのは、それをまっとうできる機会を与えてもらえて、それを実際にチャレンジすること。
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つもり貯金は、想像の中でさえも、それについて最善の全霊を尽くすこと。
つもり貯金は、想像の中でさえも、それについて最善の全霊を尽くすこと。 それについて偉大さを讃えること。 そしてそれを可能たかしめる世界にそれを任せること。 そうでなければ未練が残り、実際に手を出すことを選ぶ。 想像によって事の顛末までを見て、世界の果てまで届く想いが、放たれる。 それは花の香りのように。 それに嫉妬する者は、想像にすぎない幻想だと言うだろうが、この世界自体が幻想のひとときである。 忌み嫌う呪いではなく、偉大な創造のあらわれである。 それを讃えるのが、つもり貯金。 そして、それでもなお、あまるほどのものであれば、私にも実際に味わうときもあるのだろう、そんな微笑ましく見守る目線がそこにある。
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他人を憐れむのは、その他人を助ける暇がありながら、何もしないこと。
他人を憐れむのは、その他人を助ける暇がありながら、何もしないこと。 自分を憐れむのも、同じこと。 力を出さずに怠慢でいること。
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良心による引き際を、諦めが早すぎると言うのは、良心を忘れたのである。
良心による引き際を、諦めが早すぎると言うのは、良心を忘れたのである。
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日々この世で悪徳を手放してゆき去る身なら、日々その悪徳を批判することも一緒に手放していくとよい。
日々この世で悪徳を手放してゆき去る身なら、日々その悪徳を批判することも一緒に手放していくとよい。 手中に入れたり、どこかへ残して留まらせずに昇華するとよい。
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修行者の道と見せかけて、実はそうではないものがある。
修行者の道と見せかけて、実はそうではないものがある。 それは、家族を養うことを小さく甲斐のない繁栄だと教え、大きな繁栄を目指す夢を自我と欲望と愚かさだと教えること。 家族を捨てて、夢も捨てて、残るものは死を待つことだけ。 あとの全ては、そんな教えを訴える先生がいただく。 だが先生本人は気づかない。 死を待ちながらも、いただいたものによって自分が好きなことを味わうことに忙しい。 そうして自分好みのことばかり話す。 他の事は許さない。 そしてそれが一理あると訴えることに忙しい。 雄弁な者ほど見せかけだ。 一理あろうと、それは立つ側によっていくらでも見方が変わる。 その理の反対者もいるし、どちらの理も共に受け入れる者もいるし、ひたすら理を受け入れない者もいる。 雄弁で正義で完全無欠だと思えることほど、それは際立つ。 雄弁でなくていい、正義でなくとも、完全無欠でなくてもいい。 それが本来であり、それがほんとうの理。 理とは、主張するためのものではない。 理とは、そこにある事実の全てである。
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誰のものでもないものに値段をつけて売ってはならない。
誰のものでもないものに値段をつけて売ってはならない。 それでも伝えたいのなら無償無益の奉仕で行うこと。 それが可能なだけの余力を稼げる必要があること。 さもないとその言葉に善くする現実的な力はなく、奪う力しかない。 人は、非現実的なことに逃避するためには、どんな苦労と浪費も惜しまない。 なぜならそれは現実的な苦労と比べたら好き勝手に遊びまわるよう浪費のようなもの。 そんな売り物を振りまく者は、周囲からの浪費を吸い尽くすだけ。 扱うものが神のように偉大であるほど、あるいは神の名そのものであるほど。