物質的な成功とは完璧であるからではなく、突出すること。 それは完璧からは遠く、偏りがあり、一長一短。 外へ飛び抜けるぶん、心の内なる大切なことを失いやすい。
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社会の全てが完璧ではなく、補う余地がある。
社会の全てが完璧ではなく、補う余地がある。 極端にならず、良心で吟味し、補うべきを補うこと。 そんな極端さ自体が、社会における自分もまた完璧ではないということ。
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この世で一番強い繋がり、それは愛または洗脳。
この世で一番強い繋がり、それは愛または洗脳。 どちらも命を投げうつ道となる。 とことん洗脳されれば愛を見失うが、とことん愛で生きれば洗脳は解ける。 依存と献身の違いがここにある。 正しい道も間違った道も、突き詰めれば命が課題となってくる。 命を捨てるのか、命を活かすのか、でもある。
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未熟さは病ではない、人の成長は、薬で抑えつけることではない。
未熟さは病ではない、人の成長や変化そして痛みは、薬で抑えつけることではない。 それは子供の体の成長とも似ている。 成長や変化には痛みがともなうこともある。 免疫、体力、精神、これらは薬では成長しない、抑えつけるだけ。
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試練とは、多くを知り強大となることが目的ではない、それらはいずれ手放すもの。
試練とは、多くを知り強大となることが目的ではない、それらはいずれ手放すもの。 その最中でも心の慈悲、命への敬いを忘れずにいられたか、どこまでもそこを突き通せたか、それだけが持ってゆけるもの。 それが未来というもの。 それを見失ったものが、いくら力や正義を主張しても、聞き入れられることはない。 得てしてそういう者は成長せず、同じことを繰り返すもの。 それで得た知や力は、儚いものであり、それがなんになるというのか。 それがなくとも生きていくことはできるのに。 己の気づきは己のためにあり、他者を屈服させるためにはない。 他者もまた気づいてゆく存在であり、お互いに静かに敬うこと。 それが共に生きる道である。 人は助け合って生きなければ、生きてはゆけない。 自分がいかに知と力を持ったところで、黄金の歯車がひとりでに回転しても意味がないように、何の意味もないこと。 その正義は偏っており、好き嫌いで全てを見ようとしていないがため、つじつまが合わないもの。 至らない未熟ななか、できる努力はすること。 その結果が成功であれ失敗であれ、ただ感謝し、心を病まないこと。 心を失いさえしなければ、必ずそれは成長に繋がる。 いつでも良心を失ってはならない。
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自分が何かを学んでも、それを自分に手柄にしてはならない。
自分が何かを学んでも、それを自分に手柄にしてはならない。 それを皆も一緒に学んでいると知ること。 学びは優劣ではない。 ただ、それを受け入れるか、気づこうとするかである。 そしてそれを与えられる身を感謝するかどうかである。 それを率先して行うことが自分の仕事。 その手柄に酔いしれ、勝ち負けの力にしようとすることではない。 それは重要ではない。 もっとも小さく低く謙虚である者が、もっとも多大に敬う者である。
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都合の良い、好きなものだけを、丁重に敬うのは、敬いではない。
都合の良い、好きなものだけを、丁重に敬うのは、敬いではない。 つらいときほど、そこを試される。 都合が悪くなり、嫌いなことが増えてくる。 敵を探し、悪者を探す。 悪しき心で見ることになる。 解決を見ようとしない。 人は誰しも誰かの子だから、敬うこと。 それをしないのは、自分を敬っていない。 自分を活かす先祖代々、社会を敬っていない。 敬いが消えれば、都合や好き嫌いとなる。 そのとき人は、自分しか見ていない。 つらいときは、心で見てはならない。 そんなとき、悪しき心になるもの。 だから心で見ようとせず、心に敬いを灯し続けよ。 そして、あるがままを目で見よ。 そうすれば、つらいときでも対処法が見えてくる。 それまでの至らなさ、未熟さも、見えてくる。 それを認めて乗り越えるから、解決が成長につながる。 認めず力で強引に乗り越えようとすれば、未熟なまま。 それを繰り返すことは解決ではない。
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痛み悲しみ怒りが飛び交う世だなあと、慈悲で小さく謙虚に笑むのみ。
痛み悲しみ怒りが飛び交う世だなあと、慈悲で小さく謙虚に笑むのみ。 その笑みをもって、そのようにそうならないよう自分から進んで歩むのみ。 じつに人とは、生きる目的を忘れ、身勝手で己の感情に溺れてしまい、自他共に痛み悲しみ怒りを生み出し、ぶつけあう。 勝ち負けにこだわり、上か下かにこだわる。 強がり、否定し、恨む。 自分の良い悪いを否定するために強がり、しかし自分を守るために他者を恨む。 その感情だけで物事を見てしまえば、真は見えない。 だが真に大切なこと、真の問題を見つめれば、それは勝ち負けや上か下かではないとわかる。 それをもってすれば、小さく謙虚に笑むのみとなる。 大いなる完璧な舞台である自然界はみなそのようにして生きており、弱肉強食ではない。 もし弱肉強食であれば、際限なく欲の限りを尽くし、無理を押し続け、命の感謝を後においてしまうだろう。 それでは自然界は成り立たない。 自他ともに共生してこそ成り立つため、自分もまた自然の一部として生きる。 それはこだわりのなく、はかなくいじらしく生きている。 人はそこに気づけて、慈悲と謙虚さと笑みに気づける存在。 それを忘れてはいけない。
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本当に正しいのであれば、言葉数よりも行動。
本当に正しいのであれば、言葉数よりも行動。 それを見せて、成して、そのあとで言葉にしなければ本当ではない。
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偏った考えを持てば、自分に正しさは永遠に来ないだけのこと。
偏った考えを持てば、自分に正しさは永遠に来ないだけのこと。 正しいと信じ主張すのは勝手だが、信じ主張する必要がある時点でそれは正しくない。 正しさとは信じるも主張も不要で、自然と為されてゆくもの。
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自分よりも優れた者を相手に自分の未熟を認めるのは、見て見ぬ振り。
自分よりも優れた者を相手に自分の未熟を認めるのは、見て見ぬ振り。 本当の未熟を認めるのは、対等な者や目下の者に対しても自分の未熟を認めること。 立場が目上となり偉くなり強大になるほど、この点を忘れてしまえばおおきな害となる。
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つらいことを忘れようとしても、そうなる経緯があった。
つらいことを忘れようとしても、そうなる経緯があった。 それによる学びも反省も経験もあった。 どうあれ、それがあったから今の自分がいる。 そういう人生を歩んだ先代が必ずいて、今の自分がいるのと同じように。 先代も過去の自分も、すべては命をつなげた存在。 否定できない、消すことができない、蓋をしたり埋め立てることができない。 それをしようとすれば先代も過去も報われず癒されない。 それが自分の行動をいつまでも先に進ませず成長も発展もない。 それは命を止めるに等しく、死ぬような気持ちになる。 それを乗り越えるには、忘れず感謝し、かつ執着してはならない。 感謝して前を向くしかない、逃げ道はない。
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未熟さの自覚のと同時に、乗り越えた自信を持つことが、真実。
未熟さの自覚と同時に、乗り越えた自信を持つことが、真実。 真実を知りたければ、未熟を認め、乗り越えること。
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偽りの関係は、嘘をついて言いなりになるだけ。
偽りの関係は、嘘をついて言いなりになるだけ。 または誰かを言いなりにさせるだけ。 自分を偽る限り、それは避けられない。 苦手なこと、欠点、短所から、逃げようとする限り。 完璧であろうとする限り。 未熟さや間違いを認めない限り。 反省しない限り。 立ち向かわない限り。 人や世界に責任を押し付ける限り。 それらを乗り越えることが人生。
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ちっぽけな人間一人に、全責任を負うことは不可能。
ちっぽけな人間一人に、全責任を負うことは不可能。 責めに耐えることに価値はない。 詐欺師は、不可能なことを言って嘘をついてかっこつける。 つまり、自分を大きく見せる。 そのようなちっぽけな人間一人を、悪魔のように見て、責めることは、虚しいので、やめること。 それをするほど、自身の心に悪魔の姿を強く描くことになり、自身が悪魔のようになってしまう。 まず自分の愛を育むこと。 人助けは、手足を動かしていくこと。 可能な限りの責任を、自分が負い、尽くして、勤め上げること。 そうすると、他者の責任がどのくらい背負えるものかも、わかってくる。 そのような誠実な者の姿を見て、刺激され、他者も動き始める。 動かない者は、どのみちどうあっても動くことはない。 今生で気づかないかもわからない。 その者に任せて、待っていたら、悲しむ者が多いかもしれない。 そんなときこそ、人助け。 それを悪く言われたところで、人助けが済んだ後。 助けられた者たちは、ある程度は救われ、そのぶん悲しみは減るだろう。 あとは各自が自分の悲しみと向き合い、愛を育むことに気づくしかない。 ちっぽけな人間一人は、完璧にはなれないが、愛を育むことはできる。 それが全ての人に共通した真実であると知った時、それは永遠な巨大な愛となる。 だから、気づかせる者であれ、助ける者であれ。 恨まれてもいいが、恨まない者であれ。 失敗してもいいが、反省する者であれ。 そして愛すること。