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憐れみや慈悲をかけることは、相手の欠点や短所に巻き込まれることではない。

憐れみや慈悲をかけることは、相手の欠点や短所に巻き込まれることではない。 相手の欠点や短所に腹を立てず、人は皆お互い様であり、お互いそこで悩ましく生きることを受け入れ認めて、素直に助け合うことである。 単に巻き込みたい者は助けを素直に求めないし、他者から奪い続ける生き方しかできずにいる。 その者からは離れるしかない。



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行動してからの後悔は存在せず、成長の向上心の苦さが後悔と似た味わい。

行動してからの後悔は存在せず、成長の向上心の苦さが後悔と似た味わい。 苦さをおそれて行動せず立ち向かわず逃げて中途半端にする後ろ向きが後悔となる。 人生は苦さも含めてのもの。 苦さを受け入れ味わい赦し愛すること。 するとその苦味に隠れた甘みに気がつく。



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他者の未熟や欠点を受け入れ赦すことは、認めることであり、すべては成長すると知る叡智である。

他者の未熟や欠点を受け入れ赦すことは、認めることであり、すべては成長すると知る叡智である。 それは自分にも向けられる価値観となり、まずはじめに他者を赦せないという愚かさから成長する一歩である。 そうして人は自身の成長を受け入れ赦し、叡智を気づいて行く。


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信念のために死んでもいいという者は、そのように命を軽んじる。

信念のために死んでもいいという者は、そのように命を軽んじる。 自分の信念のために他者が死んでもいいと言うのと同じことを、世の中に振りまいている。 そしてそんな時が来るまで、ひたすら死ぬことから逃れ続け、他者を死なせ続ける。 いつまでも来ないことは信念ではない。 それは逃げるための言い訳であり、なにより未熟である。


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因果応報の理が土台にある世の中だから、受けた仕打ちのすべては自分がどこかで始めたこと。

因果応報の理が土台にある世の中だから、受けた仕打ちのすべては自分がどこかで始めたこと。 鏡のように反射しているだけ。 他者を責めたり悪く思うことは、終わらない反射を続けるためにわざわざ貴重な生を使うという、理がない行い。 理がある行いとは、明日は我が身、昨日の我が身、いつかの我が身、自分が発することを、その反射の間から立ち上がらせて、前に進ませることにある。 前に進めば次が見えるのが因果応報の理。 それは過去があってのことだから、過ぎ去ったことに感謝することも理。


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変化なく平穏で好きなことしか無い日々は感謝を忘れさせる。

変化なく平穏で好きなことしか無い日々は感謝を忘れさせる。 どんなことも受け入れるときの学びや成長が自我の縛りをひとつひとつ解いて行く。 人は傲慢になるのではない。 解けなくなるのだ。 変化がない日々に満足してしまうと、小さな変化すら嫌うようになる。 心が小さくなり、自我は大きくなる。




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他者に責任を押し付けたいとき、その他者の理を認めたくはない。

他者に責任を押し付けたいとき、その他者の理を認めたくはない。 その想い、思い通りにならず失敗したこと、未熟さからの過ち、それらは学び成長するという生きとし生きる上での学びの理。 それらを認めたくなはい。 それは相手もまた生きていることを認めない。 それはそれで見る目を欠いており、未熟であること。 それを受け入れられない。 受け入れて、そこにある生を認めること、それは自分に対しても同じこと。 自分の生を認め、受け入れ、赦す、それが生きること、すべてを賛歌にして、成長して変わって行きながらも、変わらない愛や平安を抱くこと。 自分を生きなければ、他者の生を認められず、否定するばかりとなる。 そこに成長はない。 人生のどんな味わいも嫌わず飲み込めば、後に残るは平安のみ。 消化され、排出され、感謝のみ残る。



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神とともにある道を探求するなら、どの道でもいい。

神とともにある道を探求するなら、どの道でもいい。 会社員や主婦でも立派に果たせる。 そうした道で安定して感謝して平安に果たせない者は、神の道も果たせない。 困難を避けて、楽な道へと逃げ、自分以外の道を批判して見下している者には、到底、果たすことのできない道。 求められて選ばれて自然とその道にいるなら、一般的ではない道も、役割として成り立つ。 だが自分の特異さから来るものであれば、それは変化と成長から逃げて、環境だけを変化させて逃げ回る焼畑農業のようなものにすぎない。 そのような者の言葉に真実はない。 耳を貸してはならない。 縁を持ってはならない。 近づかないこと。


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人の至らなさ、抜けているところは、どうしても他者を傷つける。

人の至らなさ、抜けているところは、どうしても他者を傷つける。 完璧になることはできないが、そういう身であることを自覚して、常々を謙虚に省みる態度でいることは、逆に他者はそこを共感して痛み入り、傷つけた側としての自責や後悔を想い、憐れみや赦しを向けることにもなる。 お互いを赦すこと、お互いを共感すること、それは同じ身であることを知ることから始まる。 それ無くしては、あり得ない。 だが、たとえ相手がそのようでないにしても、自分からそのように生きるしか、先はない。 共感や赦しは自分に起こることであり、それは自分から起こすものである。 他者の共感や赦しを自分から求めてはならない、それは、求めて受け取る資格のない、不釣り合いなことをしている。 相手が不完全で完璧ではないこと、未熟であることは、しかたがないこと。 なるべくそれが不幸を招かないように配慮することが、己を知り生きるということ。 そこに最大価値がある。 それ以外のいかなる富の積み重ねも、その者の成長や優秀さを証明することはない。 悪びれることなく言い逃れ、己の力を隠れ蓑にする者は、恥ずかしい。 なぜならそれは自分の行いを見ようとしなかったり、理解から逃げているからである。 それをいつも自分に言い聞かせること。 人は反省や成長を嫌うとき、必ずそういう態度を取っているもの。