他者に責任を押し付けたいとき、その他者の理を認めたくはない。
その想い、思い通りにならず失敗したこと、未熟さからの過ち、それらは学び成長するという生きとし生きる上での学びの理。
それらを認めたくなはい。
それは相手もまた生きていることを認めない。
それはそれで見る目を欠いており、未熟であること。
それを受け入れられない。
受け入れて、そこにある生を認めること、それは自分に対しても同じこと。
自分の生を認め、受け入れ、赦す、それが生きること、すべてを賛歌にして、成長して変わって行きながらも、変わらない愛や平安を抱くこと。
自分を生きなければ、他者の生を認められず、否定するばかりとなる。
そこに成長はない。
人生のどんな味わいも嫌わず飲み込めば、後に残るは平安のみ。
消化され、排出され、感謝のみ残る。