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誰かに従い学んでも成果が出ないのは、そこに自分の良心が無いから。

誰かに従い学んでも成果が出ないのは、そこに自分の良心が無いから。 あるいはその追従に良心が抵抗するから。 どちらにしても良心に従うなら、良心を大事に。 良心を捨ててでも成果が欲しいなら、その誰かに従うのみ。 誰かに従えば良心はない。 良心は自分自身の内にあるのだから。 従わず、助け合うこと。 そして助け合いに主従はない。 主従をうったえながら助けを求めるのは、良心を無くす。 いっときは美しく見えても、我が身を大きく見せるだけの、きりのない力への渇望だけの、無意味なこと。



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完璧を探しても目指しても叶わない。

完璧を探しても目指しても叶わない。 なぜなら、その自分自身が、永遠に完璧ではないから。 自分自身が、いつでも欠点や問題を生み出すから。 完璧を追わず、挑戦と希望をもって歩もう、そこに成長がある。 前に進み、問題と失敗があれば、そこから学び修正しよう。 はじめからそれを避けた完璧を追い求めれば、それでも問題と失敗は出てくるが、そこには学びも修正もなく、成長はなく、完璧ではないものに対する責任探しと後悔しか残らない。 この世界は常に変化するため、完璧なものは存在しない。 必ず欠けている点がある。 自然の法則のみが完璧に作用するが、それさえも欠点を探すのが、完璧ではない者の態度。 自分自身の考えや判断や希望する思い描く姿を完璧と思いたい自我があるから、そうなってしまう。 謙虚であれば、成長に向けた挑戦や希望を選び、失敗を嫌わず、成長してゆく。


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どんな物事にも、嫌な気持ち、敵視、嫌悪感で取り組んだり、指図してはいけない。

どんな物事にも、嫌な気持ち、敵視、嫌悪感で取り組んだり、指図してはいけない。 それは必ず、自他の良心を見えなくする自我の行いだから。 その物事に取り組んだところで、指図したところで、何の意味もない。 意味があるのは、自分自身の態度すべて。 それがあらゆる物事に影響してゆくし、生み出すのだから。


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集団にほ集団としての性質しかない。

集団にほ集団としての性質しかない。 個人の性質はない。 集団を見て個人の性質を判断してはいけない。 また、集団の性質を自分の性質と思ってもいけない。 国、地域、仕事、家族など。 集団の中でも疑念や反目は普通にある。 お互いの個人の性質を忘れることは、内省や思いやりや良心を忘れることになる。 集団の性質に良心はない。 集団の性質とは、そこにいる個人が共通して覚えていること、忘れていること、その集まりにすぎない。 どんなに偉大な集団であっても、それを取りまとめる長がとんなに偉大でたっても、自分個人の良心に反するなら、それらを蹴ってゆかなければならない。 それを忘れさせようという集団や、その長が、いかに美辞麗句を口にしても、いかに正しく力を誇示しても、その結果が良心に繋がらないのであれば、すべてごまかし。 でなければ小さな家族はおろか、自分自身さえ守ることはできない。 それができないことは、そこまでの命を紡いだ先祖ひいては人類の奇跡を守れないのと同じこと。 そこにはなにも価値はない。


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無礼打ちは、因果応報を早めるだけ。

無礼打ちは、因果応報を早めるだけ。 しかも新たな因果を生む。 それがなくとも無礼者はことごとく負の結果を生む選択を踏み、自分自身で不幸になってゆく。 いつまでも不平不満や不足を口にして、口をとがらせる。 いずれ周囲も希望を捨てて見放す。 本人の良心の不在が、本人をいつまでも不幸にさせる。






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平穏の中ではなく理不尽な激流のなかで揉まれながらも溺れず泳ぎきろうとする。

平穏の中ではなく理不尽な激流のなかで揉まれながらも溺れず泳ぎきろうとする。 多くを学ばされ、乗り越える。 そうして壁を突破し、殻を破り、想定よりも大きく成長する。 そうしてわかることは、過去のトラウマとなった艱難辛苦は、今の自分ならもっと簡単に楽に効率的に、かつ最善に持って行ける。 トラウマではなくなる。 すべては自分の未熟さ、自我の強さ、などが問題だとわかる。 しかしそれでもなお、あの過去だけはどうにも善転しようがなかった、おいうものがある。 物事の良し悪しや善悪の分別がつく瞬間がそこにある。 これをせずに物事を悪いと決めつけることは簡単だが、そうして拒み避ければ、一歩を踏み出さず、善転することできない。 いったんこのトラウマの仕組みがわかれば、人はトラウマは抱えなくなる。 その瞬間を逃げずに乗り越えていくから。 逃げればトラウマになり、逃げるための三段に手を尽くして、そんな弱気の生き物は生きれば生きるほど全てが悪くなると知っているから。