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わたしを使い倒してくれというのは、そこには使われ方の損得勘定の期待がある。

わたしを使い倒してくれというのは、そこには使われ方の損得勘定の期待がある。 その言葉に嘘がないなら、どんな使われ方かを問わないだろうし、その言葉に嘘はないはずが、まず嘘でしかない。 嘘がなければ、そもそもそんなこと自体を言わない。



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金のナイフを差し出して、銅のナイフで自他を傷つける者を止める。

金のナイフを差し出して、銅のナイフで自他を傷つける者を止める。 だがその金のナイフは誰がどこから、どんな手段で手に入れるのか。 まず止めることが目的なら、それは本物の金でなくても良い。 それを本物の金でなくてはならないと考えるのは、私利私欲の言い訳である。


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我が身を忘れて、我が身以外のガラクタを大事にすれば、我が身のためとガラクタのことしか考えなくなる。

我が身を忘れて、我が身以外のガラクタを大事にすれば、我が身のためとガラクタのことしか考えなくなる。 我が身を大事にすれば、ガラクタはそっちのけ、相手を思いやれる。 なぜならガラクタではなく我が身そのものを大事にすれば、我が身はすでにここにあり、よけいに大事を心配することもなく安泰だと知るから。 たいてい、人は我が身ではなくガラクタを大事にしている。


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ひとりで悟るひとは、捨てることで悟る。

ひとりで悟るひとは、捨てることで悟る。 家族を得て社会で生きる人は、与えることで悟る。 自分はどちらなのかを、客観的にみつめること。 そして基本的に人は、社会で生きながら与えることで、悟る。 それを嫌えば、ひとりで悟る人に師事しなくてはならなくなる。 そして与えることはおろか、与えられることまで無駄にしてしまう。 現代人は基本的に、社会に参加してなんぼである。 社会にいながら参加しないのは堕落である。そんな者についてゆけば、同じく堕落する。 堕落する者から金銭を巻き上げるしか生きる道がない。


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過去を振り返れば、すべては決まっていたと思える。

過去を振り返れば、すべては決まっていたと思える。 だがそれは、人の認知の範囲内で見た場合、そうなる。 不可思議の、人違いのことは、わからない。 それがあるから、生かされ、ここまでの出来事が為されてきた。 そしてその、不可思議に働きかけるのは、自分の内側にもある。 そしてこへ働きかけるものとは、自分の姿勢や良心。 それは、認知しているものへの働きかけだけではなく、認知の外にもあることまで感謝をおくる、姿勢。 自我ではない別の姿勢。 もともとの姿勢。 それをいかに気付けるか、思い出せるか、に人の成長と意識の拡大は比例する。 だが究極的に、すべてはわからない。個人が社会のすべてを生み出したのではないのと同じように。 たしかに個人の思いは社会に反映される。だがそれは、個人という自我をこえて、社会にただ想いをはせて、見聞きすること、新しくやってきた、想定外の善悪の両方に、ただ感謝することにある。



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王はいざとなれば戦うから、ふだんは王を生かせよ富させよ、という。

王はいざとなれば戦うから、ふだんは王を生かせよ富させよ、という。 だがいざとなれば、そんな王は富を持ち去る。 そんなものが自ら王を名乗る。 ほんとの王は自ら名乗らず、周囲が王であることを求めてやまない。 なぜならば行動で示すから。 いざとなれば戦い、その富のすべてを民のために捧げる。



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学びたいものや、学ばせたいものを、自分の独断で選んでは発展はない。

学びたいものや、学ばせたいものを、自分の独断で選んでは発展はない。 必要なことをするのみ。 すると自然とそれは選ばれる。 そして学び、学ばせることにつながる。 どんなことにも学びはある。 どんなことも精一杯やれば、そもそも選ぶ必要はない。