恵まれてきたから恵まれるべきと、特別扱いされるべきと、道を誤った。 その恵みは先祖や過去の徳分から来るものであり、結果的に受け取るものはそのまま受け取り、それはそれとして自分も徳分のために生きるべきだった。 それを見失えば、成功者を名乗りたがり知らないことを語り嘘をつく者に騙される。 思えばその者によって良心が傷んだことなど何度もあったはずだ。 そのときが去りどきだったが、去らなかったのは自分の自我の強さからだった。
月別: 2018年1月
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自分の変化のために自ら戦えないものは、他者のために変化を生み出せることはない。
自分の変化のために自ら戦えないものは、他者のために変化を生み出せることはない。
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悪魔はあなたと内なる神との間柄を嫉妬するだろう。
悪魔はあなたと内なる神との間柄を嫉妬するだろう。 悪魔は比較して優劣で物事を見るからだ。 その間柄に、比較も優劣もなく、金銭のように測ることなどできない。 悪魔はひたすらに比較して優劣を持ち出して、そのことを見失わせることを皮切りに、矢継ぎ早に、畳み掛けるように、あの手この手で、あなたと内なる神との関係を壊して、自信を失わせ、奴隷にし、勝ち誇るだろう。 なんとも恥知らずで恥ずかしいこと。 どんなに偉大な恩義のある存在であろうとも、そのようなことをしてきたのなら、その恩義は嘘まやかしである。 いかに偉大であろうとも、その者は宇宙の大王ではない。
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みんなが幸せならそれでいい。
みんなが幸せならそれでいい。 嘘、ごまかし、後ろ向き、逃げ、怠け、見ないふり、保留、自己保身、甘えから来る勘違いでさえなければ。 人生は一度きりだし、その選択が関わる他者にも影響することを考えれば、なにが幸せかを真剣に問うはずだから。
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かけがえのない体験に恵まれていたことは、奢りにもなるが、自信にもなる。
かけがえのない体験に恵まれていたことは、奢りにもなるが、自信にもなる。 後になるほど有り難みがわかり、執着にもなるが、感謝にもなる。 なによりその裏には愛された事実が残る。 父親の見えない厳しい愛に感謝し、母親の目に見える眼差しや温もりにも感謝する。 まるで陰陽どちらも大事なように。
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自分の幸せを選択することから逃げるのは、自我が強過ぎて、他人と比べて人目を気にし過ぎているから。
自分の幸せを選択することから逃げるのは、自我が強過ぎて、他人と比べて人目を気にし過ぎているから。 そうではなく、良心のために生きて、感謝して生きてゆくこと。 すると自分を認め、幸せから逃げなくなる。
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恵まれている上昇気流のときは、その有難さに気づかない。
恵まれている上昇気流のときは、その有難さに気づかない。 だが、いつかは斜陽となり消えると知っているから、この有難さを守りたくなる。 ほとんどの正攻法、成功法ではそうはならず、限られた人たちのみであると気づきはじめる。 だから自分だけは特別な道でなくてはならないと義務感で考え続ける。 与えられるほど、守られるほど、助けられるほど、美しく甘美であるほど、試練から逃げる特別意識と甘えに変わる。 やがて自他共に比較することを覚えると、比較による優越感も生まれる。 それは慢心と自我の増大を生むが、同時に自分では成していないことへの不安と後ろめたさと焦りを感じはじめる。 斜陽になる将来を見て、自分で盛り返すにはと調べて考えるうち、それがいかに有難いかを知る。 やがて、真にそれを安定して得た者たちは結果としてそうなったのであり、目先の仕事を愛していて、役割に応じて実現したものだと知る。 では何が彼らをそうさせたのか? それは無私と大欲から来る最善最大の貢献の結果が返ってきたに過ぎないと知る。 だが恵まれているから有難いと思うなら、それは損得感情でしかない。 彼らは最初から恵まれていたこともあれば、そうでないこともあった。 道中で仕切り直しをすることもあった。 それはいつも、小さな目先の大切なことのために、懸命に、無私の大欲で、最善最大を尽くしたに過ぎない。 そしてそのぶん、負の遺産を背負う。 そしてそれを乗り越えることにも、無私の大欲で、最善最大を尽くす。 だから恵まれなくても有難さは変わらない。 小さな目先の大切なことだからこそ、儚く、大切で、有難い。 小さな目先ほど大切にして感謝すること。 その命を多く生かせば、多くから感謝されるのは道理となる。
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相手の状態を、絶対として、完璧と見てはならない。
相手の状態を、絶対として、完璧と見てはならない。 相手もまた無知なところもあり、変化するところもある。 それはこの世界の実態なので、そのように理解しておくことが大切。 そして、みんなお互い協力すること。
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憎く赦せない存在もあるだろう。
憎く赦せない存在もあるだろう。 でもせっかく、神の命を生きる機会を与えられた、有り難く貴重な人生。 それを大事に大切に感謝して、最高とするために。 憎く赦せない存在に明け渡すのではなく、そんな自分を生き切るために。 愛と赦しで生きる道を自分は選択しよう。 全ては自分次第の自分事であり、他の存在の事ではない。 しかしほんとうは、自他の分離はなく、そんな全ての自他の悪い部分のために生きるのではなく、全ての自他にとって同じ1つである良心のための事。 自他がいくら良心を隠す自我に隠されていようとも、その自我が良心から離れるほど、違うほど、反対であるほど、良心は全くの別物であることがわかるという仕組み。 だから、全ての自他の良心を同じ1つという事実を、愛して赦すこと。 これが他人事ではなく、自分次第の自分事。 そして、そう選択するのもまた自我。
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隣人の賞賛による価値付けが必要なら、その価値は偽物である。
隣人の賞賛による価値付けが必要なら、その価値は偽物である。 なぜなら対面したものの良心に委ねない隠れた強迫だからである。
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相手の幸運を自分の手柄だと思うのは、嫉妬にほかならない。
相手の幸運を自分の手柄だと思うのは、嫉妬にほかならない。 その幸運に嫉妬し、その背景にある無数の徳分に嫉妬し、亡き者にしようと無駄に使わせ、徳の積み重ねを知らず、奪うしか知らない。 あらゆる言葉をたくみに惑わそうとする。
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自分だけは大丈夫、自分だけは違う、と思うことは、たいてい逆になる。
自分だけは大丈夫、自分だけは違う、と思うことは、たいてい逆になる。 なぜなら、そうなるために周囲環境をまず助ける必要があるのに、その行動をしないから。
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悪魔は光で誘い、神は闇のなかでも光を見出させる。
悪魔は光で誘い、神は闇のなかでも光を見出させる。
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自己責任とは、自分1人ではない。
自己責任とは、自分1人ではない。 なぜなら物事は一人では起こせない、すべての縁起で起きている。 ほんとうの自己責任とは、他人も自己の一部、世界を分け隔てなく自己として見なければならない。 問題に対処するためには、すべてをテーブルに出す。 まず自分から。 すると当然、足りなくなる。 そこから他人や、その他の要素を洗い出す。 そうして問題となっている物事を正しく理解し、対処して、学び、成長する。 自分と他人の関わり度合いを静観して、バランスを良くする。 だがそれらすべてもまた自分が選び決めたこと。 正しい自己責任によって、自他を平等に愛し、慰め、叱り、必要とあらば戦い、厳しくなり、とできる。 正義とはそこにある。 良心もそこにある。
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その場にいる先輩が自分の未来というのは、奪う人の発想。
その場にいる先輩が自分の未来というのは、奪う人の発想。 生み出す人はその場を発展させ、みんなのために貢献し、自分は一番最後という人。 その先輩をも変えうる人。 物欲のみを目指さず、嘘や誤魔化しのない貢献を念頭に動く。 すると受け取るものは最大へと成長してゆく。