方法や力が何かをするのではない。 方法や力がある目的なのではない。 悲願がはじめにあった。 それが源となって突き動かしている向かわせる先があった。 そこから実践的なものを探したり考えたり作り出したりした。 それが無数の生を橋渡しさせて、縁を経させた。 気づくべき真理などない。 学ぶべき教えなどない。 得るべき徳などない。 それらは全て、私たち全ての中に血潮のように、有り続け、行き渡り続け、動き続け、向かい続けている。 そこにある悲願が私たちを通して、あらゆる言動に移される。 だからこその、形を持たされたものがあるに過ぎない。 真理、教え、徳、悲願、そして救い、これらに関するもの。 だからそれが唯一でも最高でも最大でもない。 実践的なものは、いくつの角度や光特性や特徴に分類され、その組み合わせが良いほど実践的である。 そしてすべては同じところにたどりつく。 要がそこにある。 身体に四肢があるように。 どれかひとつにこだわれば、いずれそれ以外を忘れて、生ける屍と変わらない。 方法を目的にしてしまったこと。 それを逃避と言う。
月別: 2019年3月
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問題をわからなくするのが自我。
問題をわからなくするのが自我。 自我の強さのぶんだけ長くかかる。 自我はどこからら来るか。 神を見失ったところから。 それは長い年月をかけて、何代もかけて、見失われた。 それだけの問題の数や大きさが積もっている。 そこから帰る旅は苦しみの連続となる。 それは神からの愛。 感謝しなければその愛は無駄になり続ける。 しかしそれでも与えられる。 それが愛。
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他者の失敗を指摘する者は、同じ道を歩みやすい。
他者の失敗を指摘する者は、同じ道を歩みやすい。 なぜなら、同じ失敗を乗り越えていないかぎり、自身も同じ失敗へと歩むことになる。 相手を責める自我の勝気が、歩ませる原動力となる。
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ひとつの道で学べという教えは、その先の無形のすべてに通じる真実にたどり着くためにある。
ひとつの道で学べという教えは、その先の無形のすべてに通じる真実にたどり着くためにある。 他の道の優劣や満ち欠けを比べたりするためではない。 10年のうちにそれが現れなければ、その道を自分の自我の上を歩んでおり、何も学べていない。 その道の行いの実践の力を、自我の都合の刺激として受け取り続けるだけ。
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何度も引っ越す者は、何度も美容整形するのと同様。
何度も引っ越す者は、何度も美容整形するのと同様。
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生まれたばかりの姿、母を求める幼い姿。
生まれたばかりの姿、母を求める幼い姿。 自我に夢中な若い姿、苦労を知る大人の姿。 寛容を知る老いはじめの姿、在りし日を思い馳せ寂しがる姿。 同じ者でも異なる姿を持ち、比べれば喜怒哀楽がある。 どの姿が本当の姿か。 一方で、生まれる前から、生まれたあとから、変わらない意識が続く者がいる。 ほとんとがそれを忘れて、いろんな姿を生きる、その意識。 願わくば、なるべく、その意識でもって、いろんな姿にあるとき、感謝して生きたいもの。 そして、せめてそれを忘れている人たちのために、まず自分からそれを思い出し、あるいは維持して、愛を持って生きること。
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苦しいとき、一人でやりきろうとするとき。自分とだけの向き合いは極まる。
苦しいとき、一人でやりきろうとするとき。自分とだけの向き合いは極まる。 快楽や願望には身を委ねられる。 憎しみや敵対心には身を委ねられる。 どちらも自分以外の何かに身を委ねている。 しかし苦しみや悩みには身を委ねられない。 もうひとつある。 誰かを助けるために身を委ねるとき、それは自分以外のなにものにも委ねては成り立たない。 内在の神との向き合い、そしてその神と共に生きることは、そのとき起こる。
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愛に立ち返る信心とは。
愛に立ち返る信心とは。 生かされる感謝のもと与えるため救うために行う慈悲が自他を救うのであって、与えられる救われるためにするのではない。
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一つに万能を求めれば、この世の実権を求めることとなる。
一つに万能を求めれば、この世の実権を求めることとなる。 あの世の感得を失い、内側の良心と神を雲隠れさせ、外側に良心と神を求める限りとなり、自己に自我しか見えない無明となる。 末法の世はこのようなこと。
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わかろうとせずとも、わからなくとも、わかることはできないと決めつけても。
わかろうとせずとも、わからなくとも、わかることはできないと決めつけても。 答えは世界を満たしており、そこに漬かれば答えは全てに沁み渡る。 素直に受け止めれば、わかってゆく。
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目に見えることは、目に見えないことを存在証明している。
目に見えることは、目に見えないことを存在証明している。 変化は、不変を存在証明している。 目に見える変化を生きる有限の私たち存在は、目に見えない不変のあらわれを証明している。 見えず変化しようもなく存在せず、有り得ず無であるからこそ、ゆるぎなく確信される真理と真実。 いかような形も変化も、それゆえにあるとして赦し慈しみ受け答え尽くす、そのあらわれ。 有り難く感謝して、最善を祈り願わずには、行わずには、いられない、有限の存在。 良心は、善を積むことによる見返りの結果目的の理屈から選択される行動ではない。 良心は、善そのものが、有限の存在となれていることへの感謝から湧き出る、存在理由として直感する、原動力と指針から生まれる自然の行動。 そして、それらを奪う行為を避けて、それらを取り戻す行為に動く、良心から来る善悪の判断はここにある。
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自分と他人の双方への善となることを行うことが、自我のない善行。
自分と他人の双方への善となることを行うことが、自我のない善行。 他人に依存した善行は、自分の行いを変革することはない。 自分への善という、変革の土台を育まないがために。 自分への善とはまず、その命に感謝すること、ひいては先祖供養のこと。 他人への依存や、ひとつの行いに専修することは、その土台を見失わせる行いを増やして行く。 文書にしたためたところで、都合よく解釈され付け足され、実践的な行いよりも、権力の維持体制を壊さないための教条主義を生む。 どのように手を尽くしても、そうなる。 これが末法。 死後の救い、生きている間の救い、自我はこればかりを求める。 生まれたことの救い、今度ばかりは過去の悪行の因果を善へと果たそうとする、命を与えた、または得た、魂を預かっていることの感謝。 そのために今も生かされて、自分に関わる霊魂を救う鍵を握る存在として行動できることの貴重さと偉大さの感謝と、せずにはいられないという、生きる努力。 1人の想いの力を大きく作用させる法の存在への気づき、それは1人の善行が多くの人の心を打つことと似ている。 縁起とは、一対一ではなく、一対多でもある事実。 これが時間と距離と物質の制限を受けない霊魂の世界では、大きく拡大すること。
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末法の世においては、ひとりのスターが法を持ち帰る。
末法の世においては、ひとりのスターが法を持ち帰る。 しかし末法の世の行いは、人々がいずれそのスターと法のまわりに不要なものを足して行き、本来の法が見えなくなり誤解もされる。 末法の世によってそれが極まったとき、人々は外にいるスターにも法にも頼れなくなる。 残すは自身のみ、自身に求める以外にない。 それが本来の法のありか。 ひとりのスターは、それに気づかせて、すべての人を救うものを探し求めた。
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自我とは、魂を見失ったぶんを補おうとして生み出す幻想。
自我とは、魂を見失ったぶんを補おうとして生み出す幻想。 見失うほどに自我は強まる。
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自分は先生であると考えるものは自我にその教えを利用している。
自分は先生であると考えるものは自我にその教えを利用している。 自分は一番の学び手であり全てが自分にとっての学びの環境であり成長と向上を目指し取り組み、結果として先生となることもあると自覚し、気を引き締める者は、自我は薄くなる。