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自我はわかりたい、わかったつもりでいたい。

自我はわかりたい、わかったつもりでいたい。 わからないものにゆだねるのが無我であり、無我であれば、自我がわかりたくなくても、わからざるを得ず、自我を供養して良心が芽を出す。 それを察知した自我は、新たにわかることから逃げる。 わかったつもりが壊れて、新たなわかるということを。






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人は真実を知りたくて、支えを求めて、揺れ動く。

人は真実を知りたくて、支えを求めて、揺れ動く。 自我の選択に従ってみては、解決したと信じたい。 その利害が一致すれば団結し、違えば嫌い合う。 自我の選択でなくするには、自我そのものを選択しないこと。 それは自分だけの道。 それ以外に真実や支えを求めはしない。 そこには自分だけであり、団結も好き嫌いも、敵味方もない。


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誰かを守るということは、その人を変えたり、行動を左右することではない。

誰かを守るということは、その人を変えたり、行動を左右することではない。 人を外から守ろうとしたところで、人は自身で抱える自我から行動を選ぶ。 誰かを守るなら、変えたり左右することは考えず、自身の自我を観察し、良心からのじっせんあるのみ。 それを見た周囲が自我を選ぶならそうするし、見たものから何かを気づき感じて次の行動を選ぶ。



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自我は、自分の伝統に間違いはないと思いたい。

自我は、自分の伝統に間違いはないと思いたい。 しかし破壊がなければ改善もない。 否定と破壊は異なる。 否定すれば存在を見なくなり、破壊事態ができない。 破壊は宝石を隠す表層の汚れを洗い落とすのと似ている。 宝石そのものを破壊することはしない。 それまで幾度となく行われた破壊を逃れたい自我は、そこを矛盾する。


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理屈で間違っていないことは、その狭さの中で成り立つのみ。

理屈で間違っていないことは、その狭さの中で成り立つのみ。 目に見えない世界を扱う宗教では、それが顕著である。 大切なのであることは、その狭さの外にある。 そこに足りないこと、見落としていること、それらが損なわせていることがある。 その理屈の外とは、より普遍的なものである。 理屈は、それを意味無しと否定する狭さに籠る。 その狭さを普遍であると誤解する。 近いがそれは半解で終わる。 そこに自我の依存心がある。 永遠と普遍は形にしようとすれば必ず有限であり、また様々な道があり、どの道も同じである。 しかし自我は、それを見失わせる。 すべての宗教はみな同じである。 自身の宗教の本質を理解しないものが、それを見失い、理屈に走る。 何かを損なって行わずにいた自分を省みたくない自我が、それを否定させる。 依存心は、そのようにして、大切なことを損なう。 自我のわかりやすい習性がそこにある。 どんな崇高な理屈も、自我のために使えば道を狭める瓦礫になる。


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自分たちの道を説くのは、大切なことを伝えたり与えるためであって、他の道を否定したり隠すためではない。

自分たちの道を説くのは、大切なことを伝えたり与えるためであって、他の道を否定したり隠すためではない。 それは自我のために道を利用している。 その道が救いになり実践的であると信じて、説いていく、慈悲と慈愛から、そうしたいと、それだけのもの。 目に見えない知らないものを無いものを否定するのでも無い。 見えず知れずのものだからこそ加減を忘れて都合よく依存せず、注意して扱う必要があるということ。 依存の自我から抜けるための態度として。 否定するのは自身が別なものに依存していることからこ自我のための敵対心であり不注意であると知ること。




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どんな力あるものが巻き起こす波風も、一人分の力が何かを巻き込み巻き上げ巻き取れる一人分に過ぎず、些細なものごとでしかない。

どんな力あるものが巻き起こす波風も、一人分の力が何かを巻き込み巻き上げ巻き取れる一人分に過ぎず、些細なものごとでしかない。 それよりも偉大なものをいつも忘れずに大切にすれば、些細なものなど取るに足らない。 それでこそ大いなる存在に生かされ育まれ愛される。 それをお互いに学びたい高めて受け取ると良い。


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その場に赴きすぐに奪う狩猟と違い、農耕は大地と関わり感謝することなくして成り立たない。

その場に赴きすぐに奪う狩猟と違い、農耕は大地と関わり感謝することなくして成り立たない。 しかし狩猟もまた同じで、感謝と供養を忘れないことで枯れずに生きながらえる。 どちらも食べ過ぎれば病になり、その他は荒れ果て、滅びる。 どちらも必要なものだけ食べて、欲にうったえないことが大事。 すべてに感謝するとはそのようなこと。