この世界を存在たらしめる完璧な法則に忠実な人。 そこに屁理屈の言い訳をはさまない人。 自分の都合で法則を部分的に持ち出さない人。
月別: 2018年6月
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成長や改善は、時間をかけずには起こらない。
成長や改善は、時間をかけずには起こらない。 誰しも無条件ではないので、条件付きで制約のある人生のなか、一歩ずつ、歩むしかない。 その一歩が遅かったり小さかったりしても、成長や改善を望まないわけではない。 そんなとき物事や人を恨んだり悪く言ってはならない。 自分の主張より、物事を見て、人の話を聞くこと。 我欲はそれを望まなくても、本心ではそれを望んでいる。 しかしそれを自分の主張によって見失っている。 それを解く態度は、見聞きすること。 それは自分自身に対しても言えること。
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誰かに恵みを与えられたなら、それは相手の徳によるもの。
誰かに恵みを与えられたなら、それは相手の徳によるもの。 まわりまわったものであり、自分の力ではない。 自分の力と思うなら、まわりまわる徳を信じず疎かにし、すべてを我が物にする欲におぼれている。 それは相手の徳を盗み取るために手を尽くすことに他ならない。
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自我を守り通すためには、必ず間違いをおかすことからは逃れられない。
自我を守り通すためには、必ず間違いをおかすことからは逃れられない。 だから、正しさや力を主張する。 しかし、屁理屈で、穴だらけ。
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闇から逃げる、闇を打ち破る、どちらも間違いがある。
闇から逃げる、闇を打ち破る、どちらも間違いがある。 見ようとしない、見ようとする、それだけでは欠けている。 闇の存在もまた有り難く感謝する暖かさに良心がある。 感じて想うということが大事。 強弱や勝負は違っている。
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罪は人ではなく、人が見えない知らないことで起きる。
罪は人ではなく、人が見えない知らないことで起きる。 見ないふり、知らないふりも同じこと。 人は忘れていくもの、忘れれば見えなくなり、知らなくなる。 他人や自分を責めてはいけない。 人を罰せず、課題を見えるようにして、対処すること。 人の背中を指摘せず、お互いの背中を合わせて、お互いが見えないものを見て、助け合う。 何より、このことを忘れたくはないもの。 しかし自我は自分しか見えなくさせる。 無知であるふりをして、見えないふりをする。
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事前の口約束は、エサと同じ。
事前の口約束は、エサと同じ。 事後の責任を黙って果たす者だけが信頼に足る。
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誰かが背負えないことは、他の誰かが背負うしかない。
誰かが背負えないことは、他の誰かが背負うしかない。 だがそもそも背負う必要はない。 背中から荷物を降ろして、目の前に置くこと。 降ろしたとき、命を繋げてくれた背後のご縁、日々助けてくれた人々のご縁、それらも一緒に、目の前に置かれる。 それから手を胸に当てて、良心で何が大事かを見て、手をあわせて感謝し、次には最善の手を尽くすこと。 背負っていたら両手がふさがり、良心の胸に手を当てられず、手もあわせられず、最善を尽くすこともできない。 つまり、いかなる過去からも、人は逃げてはいけない。 それをすれば良心と感謝と最善からも逃げることになる。 自分のことだけ考えているとき人は背負うことになる。 そうではない姿勢を自分から見せて、その姿勢で人を助け、感謝し敬い、赦し、愛すること。 目先の欲や利益に溺れて人を罵倒して走り回り足で蹴るように仕事をするような生き方をしてはいけない。 まず背中から荷物を降ろして、何が大切かを見つめ直し、それを守ること。 たとそれが目先の欲や利益を失うとしても、また次があるだけのこと。 その目先の欲や利益が、人生の全てを背負って面倒を見てくれることはなく、またその力もなく、良心もない。 立場や力の弱いものが犠牲になってゆくだけのこと。
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子供に対するいかなる問題、たとえば放任も過保護、その他の何もかもが、先祖や良心が逃げて来た問題の反映。
子供に対するいかなる問題、たとえば放任も過保護、その他の何もかもが、先祖や良心が逃げて来た問題の反映。
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お互いの協力がなければ、人は一人で頑張る以外に道がなくなる。
お互いの協力がなければ、人は一人で頑張る以外に道がなくなる。 協力するにはどういう進め方、どういう道が良いか、それを考える。
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相手に合わせるということは敵対からはじまっている。
相手に合わせるということは敵対からはじまっている。 感謝するとは取引や等価交換ではない。 相手の行為にお返しをする行為ではない。 相手の存在そのものを敬い、貢献できることは何かを考えて、実行することである。
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事実や真実や真理は、自論ではない。
事実や真実や真理は、自論ではない。 事実や真実や真理を模索し、自分の理解が欠けていたり間違って入れば、その未熟を認めて、満たして正すのみ。 人は永遠の未熟。 相手の自論を批判する前に、自分自身がなにより自論で生きていないか、振り返ること。 無知や偏りは誰にでもあり、それを認めず、そのぶん欠けたものを身勝手な行動で埋め立てることが、自論を生む。 自分の好みや感情を中心とすれば、どんなに偉大な力を持つ者も、世界に害を与えることになる。 なぜなら偉大になるほど形は整い固まり、変化しづらくなるから。 それが自論となる。 何故そうなるかは、良心に問わないから。 命の強さと尊さに感謝しないから。 たんに物質として見てはいけない。 なぜならそれこそが、今の自分に見えていることしか見ない、未熟さそのもの。 それを押し進めれば、誰かの未熟さに押し込まれる。 押し込まれた者はそれを自論とする。 自論に自分も他人もなく、ただ未熟さとそこから逃げる、良心の無さが押し広がるだけのこと。 こうして良心は潰されて行く。 未熟を認めるとき、痛みの変化、壁を乗り越えるつらさ、色々やってくる。 逃げて見て見ぬ振りして忘れようとすれば、いよいよその者は命の輝きを喪い、弱りきる。 弱いものがいれば支配できる。 それが良心なき者の弱音であり未熟さである。 つまり力は正しさとはなり得ない。 腕力、知識、経験をふりかざしても。 その裏で忘れているのが良心。 いつもそこに根ざして、臨機応変であれば、自論を常に崩し、学ぶ。 いくら学んでも満たされはしない、膨れ上がったところで意味はない。 大切なのは、その姿勢を持たせる良心がそこにあるということ。 そして、悪い因果を新たに産まないこと。 命の輝きをつぶさないこと。 怪我して、乗り越え、生きて行く。 それが命。
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外の世界を批判する者は、自身の問題から逃げている。
外の世界を批判する者は、自身の問題から逃げている。 外の世界は変化し、理想の姿にはならない。 自身が逃げている問題を解決してくれる世界を見つけても、一時的でしかない。 こちらの世界に逃げては、あちらの世界に逃げる。 そして、逃げているにも関わらず、そこだけが価値の判断基準になっている。 自身の問題から逃げられるかどうかという、人生を棒にふる価値基準。
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もし自分に誇りや自慢が一つでもあるなら、執着が燃え広がる用意がある。
もし自分に誇りや自慢が一つでもあるなら、執着が燃え広がる用意がある。
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相手の行動に問題はない、そう行動させる原因が問題。
相手の行動に問題はない、そう行動させる原因が問題。 相手に問題を探すのは誤解。 そしてその原因が自分自身にあるなら、それを修正すれば相手の行動も修正される。 しかしすべてを把握し追いかけることはできない。 どの原因がどの問題に結びつくのか、把握しきれない。 だから自分自身にできることは、良心を大切に、いつも自分の心を平安に保ち、相手の平安を崩さなければ良い。 お互いが、丁寧に、ひとつひとつ、良心で判断できるよう、まずは自分からそうすること。 それを見た相手の平安により、こちらへの誤解もなくなる。