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事実や真実や真理は、自論ではない。

事実や真実や真理は、自論ではない。
事実や真実や真理を模索し、自分の理解が欠けていたり間違って入れば、その未熟を認めて、満たして正すのみ。
人は永遠の未熟。
相手の自論を批判する前に、自分自身がなにより自論で生きていないか、振り返ること。
無知や偏りは誰にでもあり、それを認めず、そのぶん欠けたものを身勝手な行動で埋め立てることが、自論を生む。
自分の好みや感情を中心とすれば、どんなに偉大な力を持つ者も、世界に害を与えることになる。
なぜなら偉大になるほど形は整い固まり、変化しづらくなるから。
それが自論となる。
何故そうなるかは、良心に問わないから。
命の強さと尊さに感謝しないから。
たんに物質として見てはいけない。
なぜならそれこそが、今の自分に見えていることしか見ない、未熟さそのもの。
それを押し進めれば、誰かの未熟さに押し込まれる。
押し込まれた者はそれを自論とする。
自論に自分も他人もなく、ただ未熟さとそこから逃げる、良心の無さが押し広がるだけのこと。
こうして良心は潰されて行く。
未熟を認めるとき、痛みの変化、壁を乗り越えるつらさ、色々やってくる。
逃げて見て見ぬ振りして忘れようとすれば、いよいよその者は命の輝きを喪い、弱りきる。
弱いものがいれば支配できる。
それが良心なき者の弱音であり未熟さである。
つまり力は正しさとはなり得ない。
腕力、知識、経験をふりかざしても。
その裏で忘れているのが良心。
いつもそこに根ざして、臨機応変であれば、自論を常に崩し、学ぶ。
いくら学んでも満たされはしない、膨れ上がったところで意味はない。
大切なのは、その姿勢を持たせる良心がそこにあるということ。
そして、悪い因果を新たに産まないこと。
命の輝きをつぶさないこと。
怪我して、乗り越え、生きて行く。
それが命。

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