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いつの日かその栄華が終わるときに悲しむ子や孫を思うと憐れみを感じる。

いつの日かその栄華が終わるときに悲しむ子や孫を思うと憐れみを感じる。 だがもしその当事者が自分なら幸いだ。 なぜなら悲しむのは自分だけでいいのだから。 幸い、それを悲しみではなく感謝と平安で昇華すればよいことを、すでに知っているのだから。 自分の子や孫がそれを知ることができるか、昇華できるかと、案じる必要がないのだから。


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詐欺とは、嘘は言わないが、狭めた一部の真実や選択肢や可能性や道しか伝えない。

詐欺とは、嘘は言わないが、狭めた一部の真実や選択肢や可能性や道しか伝えない。 ひとつの道理はあっても、その他の多くの道理を否定する。 その狭めた目先の利益を餌にして、人それぞれの使命、多様性、自身の良心との関わりといった、利益以外の大切なものを盗んでゆく。 結果として、その利益がどれだけ増えようとも、大切な使い道そのものがなくなる。 人を焼き払い奪う道がそこにある。 その免罪符として、どれだけの善行を積もうとも、そうして焼き払い奪った人々の善行の総和には遠く及ばない。 世界中の長者たちが富を集めても世界を救う力には到底及ばない事実のなか、たった一人の長者の富の自慢は、自我の慢心にほかならない。 とにかく富への執着に余念がないが、もともと世界にたゆたう富を集めるだけで、強欲を満たす以外に意味をなさない。 人々が各自で生み出し、富や幸せを分かち合い助け合うことに意味がある。 だがそれを否定するものこそが、狭めた一部の言葉である。 小さな飴玉で子供をさらうのに等しい。 またその言葉の特徴は、常に欲望にしか訴えかけない。 富もそうであるが、徳についても同じである。 たとえそれが善意から来ているとしても、独善的である。 善行とは何かという視点が欠けている。 それは偽善にもならず、実態は自我が欠点を認めず完璧でありたいとする言動にすぎない。 それが狭めた一部の言葉となってゆく。 たしかにその力は完璧で完全無欠だとしても、その力以外のものをすべて見失っているがため、それは信じてついてゆくに値しない。 人々に捨てさせた、各自に受け継がれた徳分、人々の一人分の善行を浪費させ、積ませることがない。 積むものがあったとしても、その悪徳な因果を振りまくこともまた、善行を打ち消してゆく。 そうして人々から富を集めて、たった一人の長者となろうとする。 そのような者には笑顔と親切を受けようとしてはならない、決して近づいてはならない。 まさに、悪魔は優しいのであり、そうした欠点を反省することもしない。 その強さで否定し、その欠点と狭さで反省点を見ることもない。


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知らなければ成功できない成功例と失敗例がある。

知らなければ成功できない成功例と失敗例がある。 失敗例は外にある。 成功例は自分の内なる良心が教えてくれる。 この真逆として、外にある成功例だけを見せて失敗例を隠すことで、人々を成功させるとうたうなら、知らずに詐欺を働くことになる。 それで成功した者は本来の力を衰えた形に使ってしまったにすぎない。 宝の持ち腐れとなり、いずれはそれも詐欺となる。



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世代ごとに時代は異なる。

世代ごとに時代は異なる。 引き継いだ恩恵、問題、色々と。 栄枯盛衰の、はじまりから、おわり。 生み出すもの、残される影響。 三世代も隔てれば、まるで景色は異なる。 常に問題はある。 問題があることを否定したり、悲観したり、情けなく思うことはない。 ただ、最善を尽くし、次の世代のために生きること。 それがこの世界の改善と成長と供養となる。 この世界そのものの生き様に沿うことになる。 それが成功だと言える。




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自分の道なら成功は保証されている。

自分の道なら成功は保証されている。 自分の良心に従うこと。 他者に預けてはいけない。 他者の顔色をうかがえば、必ず自分の道と良心から外れる。 うかがいを必要とする顔色に出るのは良心ではなく、身勝手に善悪を断じる自我。 または良心を失った虚無。 そこに良心が無いから、うかがわせる。 良心の顔色は素直であり、うかがいは不要。








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良心とは、そのまま、悪い心でいないこと。

良心とは、そのまま、悪い心でいないこと。 心を痛めるにしても、良いことのために心を痛めること。 それは憐れみや慈悲や思いやりとなる。 他者のいかなる行為にも、怒りで対応してはいけない。 自分の心に怒りや妬みの香りを立たせてはならない。 そう立ててしまう自分の問題を見つめて、その問題ではなく大切なことに焦点を合わせること。