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許さないことで悪を排除できる。なのに、なんの理由や目的があって許さなくてはならない?

許さないことで悪を排除できる。なのに、なんの理由や目的があって許さなくてはならない? これは人生の責任を外に置く発想。 自分の問題と向き合わず成長せずにおきながら、発展や力は欲しがる。 自分に責任をおいていれば、敵同士も戦いが終われば最高の伴侶となる。 さもなちと、味方同士でさえ、自分たちの失敗の原因を責め合う。 吊るし者を探し続ける。 ほんとうに道が違うなら、そのお互いが善であり悪であるなら、許し合いのうえで、お互いが歩み、気づけば自然と道が違ってきて、お互いを応援し敬う和があり、遺恨もない。






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自分が苦しくて助けて欲しいが、苦しむご先祖さまやそのほかご縁の霊の方々の気持ちもわかる。

自分が苦しくて助けて欲しいが、苦しむご先祖さまやそのほかご縁の霊の方々の気持ちもわかる。 相手が喜ぶと自分も嬉しいように、ご縁の霊の方々を助ければ、自分も嬉しくなれる。 自分は最後でいい、希望だけは持ちたい。 期待してしまうなら、その期待は一番最後に順番が来ればいい。 誰かに希望と助けの順番か来るサイクルを作ってあげたい。


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この世界はあまりに美しく、失うのが心底、恐ろしくなる。

この世界はあまりに美しく、失うのが心底、恐ろしくなる。 あまりに美しく、どんな悪にも良い面を信じようとする。 やがてそんな悪に手を染めて、騙されきる。 そんな自分を心配する隣人を変えようとする。 変えられなくても憎みはしないが、憎めと教われれば憎むようになる。 何故か。 美しさを失うのが怖すぎて、美しさを変化なき永遠を求めて、世界に強要させようとしはじめた。 だがその美しさは、変化の上に生まれた奇跡。 有限であることは条件である。 太古の昔にもそんな美しさに心打たれたものがいたように、今のあなたもそこにいる。 だからその美しさが有限で変化しても、恐れることはない。 その美しさがいつかまた新たな変化の上に生まれるためには、そんなあなたのゆるぎない良心が必要なのだ。 過去の美しさはたしかに忘れがたい。 でも、だからこそ、それらの上にある今ここの、常に目の前にある美しさを忘れてはならない。 それを大切にしなければ、それら美しさはすべて無駄になる。 そして新たな美しさもなくなるだろう。 今からでも遅くない、そのように生きよう。


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成功者を名乗る者ほど、短い成功と失敗を繰り返します。

成功者を名乗る者ほど、短い成功と失敗を繰り返します。 長い目で見れば不安定で長続きせず平行線で安定していません。 そして成功話を、力を見せつけるために語ります。 まるで長く持続しているかのように話します。 失敗話のほうは、感傷を生むために語り、繰り返しの平行線の実態を見せることはしません。 生み育てることができず、焼畑農業の繰り返しが、平行線を描きます。 良心よりも、成功を握ること、ぜいたくを賞賛することを選択します。 周囲と分かち合うことはエサ撒きに使うのみで、ほとんどしません。 小さな仕事を見下し、仕事を嫌い、雇用を生み出す発想ではなく、奪う発想です。 嘘とわかって信じさせるためや、周囲の良心を殺すためには、手段を選ばず、神の名前すら使います。 真の成功者は、名乗ったり語ったりしません。 まず誰が見ても明らかで、その必要がありません。 むしろ名乗り語ることが余計な物事を生むので、しません。 そもそも語ることではなく仕事を遂行することが目的なので、自慢のために立ち止まりません。 長く安定して成功し成長を続けます。 そして晩年はそれらの執着に苦しまず、手放してゆきます。 それを自分の力だと奢ることもしません。 良心を重んじ、質素さを喜び、結果的に受け取る富にも偉ぶらず感謝して受け取ります。 それを周囲にも損得抜きで分かち合います。 仕事に貴賎をつけず、目先の仕事を愛し、雇用を生み、与える発想です。 嘘をつくことはあれど不完全な人間であると自覚し、内心は恥じて、畏れ多くも神の名前を出しません。 生み育てたものに押し上げられて、長く安定して成長する成功を与えられます。



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霊的体質で、やがて霊的な先生に学び、霊性修行にあけくれることは、どの時代の恵まれた男子にもよくある話です。

霊的体質で、やがて霊的な先生に学び、霊性修行にあけくれることは、どの時代の恵まれた男子にもよくある話です。 家庭環境はたいへん豊かで、恵まれ、愛され、特別扱いもされました。海外でも育ち、国内外のいずれもたいへん恵まれた環境を与えられます。 しかもそれは年を経るごとに増大してゆきました。 だんだん特別意識や慢心が大きくなり、良心に反したことを行ない、大きく失敗して大切なものを失いました。 でも、それは霊性修行のせいではないし、恵まれていたせいでもありません。霊的な先生のせいでもないし、国や家族のせいでもありません。 同じような家庭環境にいる兄弟姉妹は霊性修行などしてませんし、特別意識や慢心も見られません。 原因は、彼の自我が強過ぎたことにありました。栄える家系と豊かさを続けたい、失いたくない、と変化を恐れたのでした。 その恵みはあまりに大きく、自分の力ではなく受け身で恵まれていることによる将来の不安と負い目と劣等感がありました。 普通に働いたのでは守れない、と近道を探す気持ちが心の奥底に芽生えます。しかしあまりに恵まれていて、永遠に思えてしまうので、すぐにそのことは忘れてしまうのでした。そして、機会があるたび思い出しては悩むのでした。 受け身で恵まれるよりも自分自身のことを認めてもらいたくて、良心で判断せず、言われるがまま行動するようになります。自分がなくなってゆきます。 失う恐れについて考え続け、哲学者となります。そして理屈でいくとこの世界は幻想であり、これは引っ掛け問題であり、じつは死ぬことが正解だ、ということになります。 しかし、幻想でもなお愛や思いやりかがこの世界にはあり、与えられてきたこと。与えて欲しい欲よりも、与えていただいた愛の奇跡の感謝に気付かされます。 ですがそれでも自我は消えません。むしろ社会を見るほど問題だらけで、批判的な気持ちが出てきます。するとそれを断罪できる切れ味を求めて、霊性修行へと没頭することになります。ほんとうは良心で頑張れば周囲も変わるものですが、そこから逃げているだけ。 そんな境遇に者にとって家系の恵みはさらに大きくなり、遺産を預かれるほど長く続くものでした。しかし同時に少しずつ、昔からあったものが失われ始めました。いつも中心にいる家長は、いつか必ず亡くなり、快活な親族も次々に老いて、次第に彼らはみな離散してゆきます。 失われてゆく恵みを維持したくて、受け身の特別扱いよりも、自分自身から生み出す力が欲しくて、良心よりも力を得る方法を選ぶようになるのでした。 これらは恵まれる者ならではの、幼いころから重圧で、そこから自由になるために、恵みや家族の絆から自由になろうと、放棄の精神になろうと、やはり霊性修行にあけくれるわけです。でもずっと本音は手放したくありませんでした。 そして彼らは得てして、金銭面では特別扱いの近道ばかり探しました。普通に仕事をしていても確率としてここまでの恵みに至るのはたいへん低いと考えていました。 結果として、全ての恵みは、良心の結果であることがわかりました。みな、目先の仕事を愛して、みんなのために、頑張ったのでした。そして、一人で築いたのではなく、親兄弟と仲間が力を出し合って大きくなっていったのでした。 とはいえ、それでもここまで、つらくても弱音を吐いたりせず、途中で投げ出して逃げ出さず、問題解決を繰り返し、人のせいにせず自分を反省し、仲間のために動き、後ろ向きにならず前向きに、自分なりに誠実に走ってきたことが、彼自身を強くしてくれました。そして、波のない人生において忘れがちな、大切なこと、気づきにくいことに、逆に気づき、教訓として残せることを、伝えていくことにもなります。 それらの強さが認められるようになり、評価されるようにもなりますが、昔の彼には、それらがひとつもありせんでした。今ではまるで別人になりました。自信がなかった、認められたい、そんな自分はもう、いなくなってゆきます。人は成長しつづけます。 ずっと失敗続きで、大半の日々は自信がなくて、認められたい日々。でもやがて、失敗も成功も関係ないことがわかる。 しかし、たいてい、歯止めはなく、誰も教えることのない道において、たいていの者は、やりすぎました。 引き際はあったんです。最後まで引きずっていたのは、認められたい、見返したい、の一心でした。それはやっぱり、特別意識、大きな自我でした。 人のせいにできることは、しようと思えば、きりがありません。例えばあるとき、自分の良心からの言動を、恩着せがましく理不尽に責め立てられて、自分の良心を徹底的に殺されるような仕打ちを受けたことが、決定的かつ大きな転換点でした。 その罪滅ぼしと思って頑張ったのですが、それは良心を殺し続ける日々であり、1番の罪作りでした。 しかしそこで見極められなかったのは、結局、彼の自我が大きかったからでした。 なぜ? ひとつの答えとして、当たり前のことを忘れている、ということがあります。それは、感謝です。見えないご縁や支えに気づくこと。例えば先祖供養もそうだと思います。道徳を学ぶことこともです。 そこに成功も失敗も関係ない。成功する方法でなければ失敗もできないですし、成功と失敗は常に裏表で共存しているし、タイミングの問題だと思います。失敗から学び成功します。そしてどちらでも、いつでも変わらない大切なものが良心です。 自称成功者ほど、失敗を話したがりません。成功を話したがります。でもほんとの成功者は、そもそもどちらも話しません。その根幹にある大切なことのみ話します。 不思議なことに、そうした自我のために霊性修行や金銭のことを追いかける、そんな良心を殺す日々であっても、同時に良心で行動しています。2人の自分がいます。良心で行動していて希望が見えてくると、良心を殺す舵取りが割り込んで、希望が遠ざかる。そんなふうに、混じり合っていました。良心で行動しても、まるで焼け石に水をかけるかのように、手応えがないものでした。 やっているから良い、とは言えないのだと思います。そこの分別をつけることもまた良心ですし、それを邪魔するのが自我でした。 良心を認めるのは自分だけであり、他人ではないことがわかりました。他人に認めてもらいたいのは自我だと。 言う通りに従えば評価されて認められる、そんな凝り固まった良心不在のルールになると、いよいよ良心を殺すことは徹底的になってゆきます。それ自体を良心だと錯覚するからです。 無くなったものの代替え品は、穴にハマればなんでも良い、となってしまいます。 どんなことも、慣例になってしまえば、やがて人はその意味を忘れて、形だけになり、最後は形も捨ててしまいます。 自分に都合の良いものだけ感謝して、身勝手な好き嫌いを道徳だと誤解して、その自我の満足のために、自信を失っていたり、抵抗できない人たちに、教え込みます。 そしていつの日か、誰かがそれで困り、悩み、失敗して、その意味にたどりつく。感謝や道徳の大切さに気がつくことになります。 こうしたことに気づくには、霊性修行は不要です。でも、その経験が全くの無駄でもありません。考察と検証には役立ちます。 自我の問題は、霊性修行では解決しません。そんな都合の良い魔法の杖は存在しません。 自我の対象を抹殺した場所で生きるとしても、それでは両親や先祖に感謝の実践もできません。 そこに積み残されたものが良心を隠して自我を大きくします。 距離を置くことが独立ではない。ともに感謝して活かし合う関係となれるよう、良心で日々を勤め上げる、それが独立です。 彼は、大きな恩恵からも、独立する必要がありました。たいてい、まず人はそこに染まってゆき、溺れてゆきます。それは濁流です。それでもなお立ち続ける独立の強さを学ぶことになります。 独立とは支配から自由になることです。良心を他人に預けたり、他人を気にして敵視することではない、そんな心から自由になることです。


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恵まれてきたから恵まれるべきと、特別扱いされるべきと、道を誤った。

恵まれてきたから恵まれるべきと、特別扱いされるべきと、道を誤った。 その恵みは先祖や過去の徳分から来るものであり、結果的に受け取るものはそのまま受け取り、それはそれとして自分も徳分のために生きるべきだった。 それを見失えば、成功者を名乗りたがり知らないことを語り嘘をつく者に騙される。 思えばその者によって良心が傷んだことなど何度もあったはずだ。 そのときが去りどきだったが、去らなかったのは自分の自我の強さからだった。



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悪魔はあなたと内なる神との間柄を嫉妬するだろう。

悪魔はあなたと内なる神との間柄を嫉妬するだろう。 悪魔は比較して優劣で物事を見るからだ。 その間柄に、比較も優劣もなく、金銭のように測ることなどできない。 悪魔はひたすらに比較して優劣を持ち出して、そのことを見失わせることを皮切りに、矢継ぎ早に、畳み掛けるように、あの手この手で、あなたと内なる神との関係を壊して、自信を失わせ、奴隷にし、勝ち誇るだろう。 なんとも恥知らずで恥ずかしいこと。 どんなに偉大な恩義のある存在であろうとも、そのようなことをしてきたのなら、その恩義は嘘まやかしである。 いかに偉大であろうとも、その者は宇宙の大王ではない。