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霊的体質で、やがて霊的な先生に学び、霊性修行にあけくれることは、どの時代の恵まれた男子にもよくある話です。

霊的体質で、やがて霊的な先生に学び、霊性修行にあけくれることは、どの時代の恵まれた男子にもよくある話です。

家庭環境はたいへん豊かで、恵まれ、愛され、特別扱いもされました。海外でも育ち、国内外のいずれもたいへん恵まれた環境を与えられます。

しかもそれは年を経るごとに増大してゆきました。

だんだん特別意識や慢心が大きくなり、良心に反したことを行ない、大きく失敗して大切なものを失いました。

でも、それは霊性修行のせいではないし、恵まれていたせいでもありません。霊的な先生のせいでもないし、国や家族のせいでもありません。

同じような家庭環境にいる兄弟姉妹は霊性修行などしてませんし、特別意識や慢心も見られません。

原因は、彼の自我が強過ぎたことにありました。栄える家系と豊かさを続けたい、失いたくない、と変化を恐れたのでした。

その恵みはあまりに大きく、自分の力ではなく受け身で恵まれていることによる将来の不安と負い目と劣等感がありました。

普通に働いたのでは守れない、と近道を探す気持ちが心の奥底に芽生えます。しかしあまりに恵まれていて、永遠に思えてしまうので、すぐにそのことは忘れてしまうのでした。そして、機会があるたび思い出しては悩むのでした。

受け身で恵まれるよりも自分自身のことを認めてもらいたくて、良心で判断せず、言われるがまま行動するようになります。自分がなくなってゆきます。

失う恐れについて考え続け、哲学者となります。そして理屈でいくとこの世界は幻想であり、これは引っ掛け問題であり、じつは死ぬことが正解だ、ということになります。

しかし、幻想でもなお愛や思いやりかがこの世界にはあり、与えられてきたこと。与えて欲しい欲よりも、与えていただいた愛の奇跡の感謝に気付かされます。

ですがそれでも自我は消えません。むしろ社会を見るほど問題だらけで、批判的な気持ちが出てきます。するとそれを断罪できる切れ味を求めて、霊性修行へと没頭することになります。ほんとうは良心で頑張れば周囲も変わるものですが、そこから逃げているだけ。

そんな境遇に者にとって家系の恵みはさらに大きくなり、遺産を預かれるほど長く続くものでした。しかし同時に少しずつ、昔からあったものが失われ始めました。いつも中心にいる家長は、いつか必ず亡くなり、快活な親族も次々に老いて、次第に彼らはみな離散してゆきます。

失われてゆく恵みを維持したくて、受け身の特別扱いよりも、自分自身から生み出す力が欲しくて、良心よりも力を得る方法を選ぶようになるのでした。

これらは恵まれる者ならではの、幼いころから重圧で、そこから自由になるために、恵みや家族の絆から自由になろうと、放棄の精神になろうと、やはり霊性修行にあけくれるわけです。でもずっと本音は手放したくありませんでした。

そして彼らは得てして、金銭面では特別扱いの近道ばかり探しました。普通に仕事をしていても確率としてここまでの恵みに至るのはたいへん低いと考えていました。

結果として、全ての恵みは、良心の結果であることがわかりました。みな、目先の仕事を愛して、みんなのために、頑張ったのでした。そして、一人で築いたのではなく、親兄弟と仲間が力を出し合って大きくなっていったのでした。

とはいえ、それでもここまで、つらくても弱音を吐いたりせず、途中で投げ出して逃げ出さず、問題解決を繰り返し、人のせいにせず自分を反省し、仲間のために動き、後ろ向きにならず前向きに、自分なりに誠実に走ってきたことが、彼自身を強くしてくれました。そして、波のない人生において忘れがちな、大切なこと、気づきにくいことに、逆に気づき、教訓として残せることを、伝えていくことにもなります。

それらの強さが認められるようになり、評価されるようにもなりますが、昔の彼には、それらがひとつもありせんでした。今ではまるで別人になりました。自信がなかった、認められたい、そんな自分はもう、いなくなってゆきます。人は成長しつづけます。

ずっと失敗続きで、大半の日々は自信がなくて、認められたい日々。でもやがて、失敗も成功も関係ないことがわかる。

しかし、たいてい、歯止めはなく、誰も教えることのない道において、たいていの者は、やりすぎました。

引き際はあったんです。最後まで引きずっていたのは、認められたい、見返したい、の一心でした。それはやっぱり、特別意識、大きな自我でした。

人のせいにできることは、しようと思えば、きりがありません。例えばあるとき、自分の良心からの言動を、恩着せがましく理不尽に責め立てられて、自分の良心を徹底的に殺されるような仕打ちを受けたことが、決定的かつ大きな転換点でした。

その罪滅ぼしと思って頑張ったのですが、それは良心を殺し続ける日々であり、1番の罪作りでした。

しかしそこで見極められなかったのは、結局、彼の自我が大きかったからでした。

なぜ?

ひとつの答えとして、当たり前のことを忘れている、ということがあります。それは、感謝です。見えないご縁や支えに気づくこと。例えば先祖供養もそうだと思います。道徳を学ぶことこともです。

そこに成功も失敗も関係ない。成功する方法でなければ失敗もできないですし、成功と失敗は常に裏表で共存しているし、タイミングの問題だと思います。失敗から学び成功します。そしてどちらでも、いつでも変わらない大切なものが良心です。

自称成功者ほど、失敗を話したがりません。成功を話したがります。でもほんとの成功者は、そもそもどちらも話しません。その根幹にある大切なことのみ話します。

不思議なことに、そうした自我のために霊性修行や金銭のことを追いかける、そんな良心を殺す日々であっても、同時に良心で行動しています。2人の自分がいます。良心で行動していて希望が見えてくると、良心を殺す舵取りが割り込んで、希望が遠ざかる。そんなふうに、混じり合っていました。良心で行動しても、まるで焼け石に水をかけるかのように、手応えがないものでした。

やっているから良い、とは言えないのだと思います。そこの分別をつけることもまた良心ですし、それを邪魔するのが自我でした。

良心を認めるのは自分だけであり、他人ではないことがわかりました。他人に認めてもらいたいのは自我だと。

言う通りに従えば評価されて認められる、そんな凝り固まった良心不在のルールになると、いよいよ良心を殺すことは徹底的になってゆきます。それ自体を良心だと錯覚するからです。

無くなったものの代替え品は、穴にハマればなんでも良い、となってしまいます。

どんなことも、慣例になってしまえば、やがて人はその意味を忘れて、形だけになり、最後は形も捨ててしまいます。

自分に都合の良いものだけ感謝して、身勝手な好き嫌いを道徳だと誤解して、その自我の満足のために、自信を失っていたり、抵抗できない人たちに、教え込みます。

そしていつの日か、誰かがそれで困り、悩み、失敗して、その意味にたどりつく。感謝や道徳の大切さに気がつくことになります。

こうしたことに気づくには、霊性修行は不要です。でも、その経験が全くの無駄でもありません。考察と検証には役立ちます。

自我の問題は、霊性修行では解決しません。そんな都合の良い魔法の杖は存在しません。
自我の対象を抹殺した場所で生きるとしても、それでは両親や先祖に感謝の実践もできません。
そこに積み残されたものが良心を隠して自我を大きくします。

距離を置くことが独立ではない。ともに感謝して活かし合う関係となれるよう、良心で日々を勤め上げる、それが独立です。

彼は、大きな恩恵からも、独立する必要がありました。たいてい、まず人はそこに染まってゆき、溺れてゆきます。それは濁流です。それでもなお立ち続ける独立の強さを学ぶことになります。

独立とは支配から自由になることです。良心を他人に預けたり、他人を気にして敵視することではない、そんな心から自由になることです。

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