感謝や慈しみに勉強も準備もない。 今が常に本番。 本番には失敗もあれば過ちもあれど、今を常に逃げずにいるなら、その失敗や過ちは変化の色にすぎない。
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新しいものを生むことの価値は、その後に継続する流れにある。
新しいものを生むことの価値は、その後に継続する流れにある。 普遍性、探究心、といったもの。 その流れは線ではなく、扇のように広がり世界を息づかせて、潤してゆく。 ただ奪い我欲を集める猿真似だけの者の行いに、この価値はない。
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ただ放棄するのは片手落ち。
ただ放棄するのは片手落ち。 感謝を知り、手放しで楽しむこと。
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静観や客観とは、対岸の火事や、他人事、他人行儀、放棄ではない。
静観や客観とは、対岸の火事や、他人事、他人行儀、放棄ではない。 積極的な関わりの中で行えてこそである。 でなければ良心を踏みにじっても問題ないという理屈も通ることになる。
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本当のことを知りたいのなら、かけがえのないものを失い、愛を失い、などの泥にまみれて泥を知って濾過するような艱難辛苦を味わうことになる。
本当のことを知りたいのなら、かけがえのないものを失い、愛を失い、などの泥にまみれて泥を知って濾過するような艱難辛苦を味わうことになる。 不要な損失を自他に強いることになる。 本当のことなど知らなくても、良心を大事にすれば、実態は本当のことそのままとなる。 自分を省みず世界を変えようと周囲を断罪しようと怒りを抱き、身の程知らずの尊大な正義感を押し通すための勝敗にこだわれば、無駄な損益を生み出してしまう。 そのような事がなければ、そもそも、もともと、最善となる。 そしてその最善を見失わないようにして、その最善を全力を尽くすこと。 静観する客観性とは、そのようなこと。 けして対岸の火事のように他人行儀な世捨て人になることではない。
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お金より大切なもの、それは何のためにお金を稼ぐか。
お金より大切なもの、それは何のためにお金を稼ぐか。 それを今ないがしろにしながら、いつかはそのためにとお金のために走るなら、明らかな間違いを冒している。 未来などわからない、今しかないのだから。
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消費者はコンテンツを手軽に消費できるなら、場所を変えることも苦にしない。
消費者はコンテンツを手軽に消費できるなら、場所を変えることも苦にしない。 そのためプラットフォームは永続的ではないと思える。 しかしコンテンツ自体も飽きられるため、こちらも永続的ではないと思える。 しかし大手や大局から常に切り捨てられる少数派コンテンツは、変化の流れより、永続的な収束を願われる。そのプラットフォームも、永続的なことを求められる。 今やプラットフォームは駅前でなく、世界中に展開できる。 しかも個人であっても可能。 個人ならではのプラットフォームには永続的に愛されるものがあると言える。 それ自体が作家性になってゆく。
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信じるとは、盲目になることではない。
信じるとは、盲目になることではない。 盲目を必要とする信は、良心を隠してしまう。
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コンセプトが重宝されるのは、そこに生み出すまでの始まりと過程に立ち会えるから。
コンセプトが重宝されるのは、そこに生み出すまでの始まりと過程に立ち会えるから。 生み出されたものを守り続ける技巧の深まりには、それがない。 つまり、変化がない。
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周囲を讃えると、自分が清らかになったと思えるが、自分を省みることにフタをすることになる。
周囲を讃えると、自分が清らかになったと思えるが、自分を省みることにフタをすることになる。 自分を省みない者は、讃えている周囲の力を損なせ、無為に失わせる。
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評価や利益ではなく、純粋に働き、純粋に作り出したい人にとって、大きすぎる評価や利益は後ろめたさを感じさせる。
評価や利益ではなく、純粋に働き、純粋に作り出したい人にとって、大きすぎる評価や利益は後ろめたさを感じさせる。
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欲や憎しみよりも良心を選択する環境は、恵みである。
欲や憎しみよりも良心を選択する環境は、恵みである。
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余程でない限り、常習は不要。
余程でない限り、常習は不要。 常習を狙い、勧めたり、強要しようとすらするものは、その者の欲のために、奪い集める思想。 どんな美辞麗句もそれを覆すことはない。
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どんな数奇な未来も変化の後にやってくる。
どんな数奇な未来も変化の後にやってくる。 その過程を無視すれば、無理な変化と、無理な未来を強いる。 そこに愛も和も善も成長も発展も調和も得心もない。
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他者の所業で誰かが傷つき、その他者を変えられないなら、傷から守り、傷が癒える、そんな光を放つように生きなさい。
他者の所業で誰かが傷つき、その他者を変えられないなら、傷から守り、傷が癒える、そんな光を放つように生きなさい。