苦も楽も酸いも甘いも山も谷も全力で飛び込み取り組み受け入れよ。 期待と落胆の落差や想定外の因果応報や陰陽のどちらに慟哭することはない。 どんな物事も虚無であり同一と捉えることはできない、なぜなら人はそのように作られてはいない。 それなのに虚無を選択することは、これもまた選り好みとなり、特異な道を求め、それを誇大にする。 先祖への虚無、目の前の仕事への虚無。 そんな誇大な者を相手にすれば、ひれ伏すしかないように思える。 だがそんな相手と同一の魂が自分の内にある。 どのような相手としても。 そのまわりを囲む自我の戯れの悲喜交々を想うから慈悲となる。 過去の失敗も学びとなるから美となるわけではない。醜さはどうあれ醜さ。美しさも。 その一切合切を 飲み込み、発酵さす。母親の子宮のように。それをらをも産み出したように。 それが母性。太陽のような愛。 そのように艱難辛苦を飲みこみ醸した強大な力を、見返りを求めず、たむける。 それが奇跡の力を持たなくて何なのか。 愛を手向けることは暴力より力弱く見えるのは、愛の内にはそんな強大さがあることを知らないから。
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我慢が必要なのは、そこに感謝がないからです。
我慢が必要なのは、そこに感謝がないからです。 我慢というのは、そこに約束されたものがあればこその、取引条件です。 その土台にいることを感謝せず、我慢という恨み節をうたい、またそれを餌に他者を何かに巻き込むことは、自分のためだけにしていることです。 不必要な富と時間を蓄え、命を無駄に浪費するだけです。 感謝に気づけていないことが、その証です。
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向いてないと愚痴るから失敗するのではない。
向いてないと愚痴るから失敗するのではない。 ただただ向いてないから失敗する。 向いていないと愚痴りながらも仕事がはかどるなら、向いている。 どうあれ仕事がはかどらないなら、向いていない。 向き不向きは、個人のワガママに社会が付き合って仕事を与えてくれるわけではない。 そんな個人のワガママにつけこむような話は、いかに大義名分や美辞麗句や正義や真実や真理がそこにあるようでも、それは紙に書き写したような、実際には通用しない紙切れのうえでの幻想の嘘。 そんな誘い話があるなら、それが有料か無料か、確認すること。有料なら、まずカモにされる人がいることで成立する金稼ぎ。無料でも、その先に有料なものを不可避に売り込む巧みな戦略がある。なぜならそもそも、人の貴重な一生あえてやる必要がない。いっときの気休めを餌にする。あえてやるのは、無自覚である。 まず話の主は無自覚でやっている。なぜなら彼も人の子、死ぬまで成長する未熟者だから。でなければ個人のワガママにつけこむ気休めの話はそもそもしない。 火中から救い出すための嘘にもならない。むしろ火中に誘い込む行動。
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どこどこまでも、恨みつらみは自分の誤解である。
どこどこまでも、恨みつらみは自分の誤解である。 そのゆえん、由来、理由、原因、縁をすべて理解したなら、そうかそうだったか、仕方ない、と太陽のように無条件で愛を与えることを赦すという赦しを行うだろう。 それがないとき恨みつらみが生まれる、 恨みつらみが染み付くのは、そこにそんな母性が欠けて久しいから。
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物事の総和は変わらない。
物事の総和は変わらない。 古代の何万倍と情報量の増加があっても世界は変わらない。 古代人が劣っていることはない。 ただし現代人のほうが生かされている生命感覚から遠ざかることはある。 総和の割合を内に向けるか外に向けるかの違い。
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生まれてここにあることの奇跡の光の眩さを思えば、自他の欠点や仕事の不満など影にも残らないほど、とるに足らないもの。
生まれてここにあることの奇跡の光の眩さを思えば、自他の欠点や仕事の不満など影にも残らないほど、とるに足らないもの。 むしらそれらもまた奇跡の一部。
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知はなんとでも言える。
知はなんとでも言える。 無知であることは、なんとも言いようのない、たったひとつの答え。これを知ることが、なんとでもゆらぐことのない、本当の知である。 ゆえに、なんとでも言えることは知ではない。
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失敗して学ぶために生きているとは、自分で言うのはいい。他人に言ってはならない。
失敗して学ぶために生きているとは、自分で言うのはいい。他人に言ってはならない。 なぜならそれは私のために命を捧げて多くを失って与えるために寄って来いと言うようなことだから。無意識でも同じこと。意識できないということは、このことに気づいていない。
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自分が一番幸せだと言ってゆずらない人は、足元に多くの屍を築くことを苦と思わない。
自分が一番幸せだと言ってゆずらない人は、足元に多くの屍を築くことを苦と思わない。 人はみなそれぞれに幸せであり、一番などない。 一番を望んだ瞬間、他者の幸せを足元にすることを選択し、周囲それぞれの幸せへの理解が蓋される。 物理的に、そうならざるを得ない。 そうでなければ一番にはなれない。それでいて周囲にも一番の幸せをと説き、周囲を魅了し引き寄せる。 実態は自分の幸せ以外を理解できないほど自我が大きいということ。その自我が満足すれば周囲も幸せと考える。 それは周囲にとっては見た目、たいへんな良心に見える。それもそのはず、自分の幸せの理想像を他者にも信じさせるから、それを説かれた周囲はそれが良心に見える。 だが周囲の誰をも騙せはしても、幸せにはなれない。また、いつまで騙せるだろうか?
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同業他者を批判する者に真理はない。
同業他者を批判する者に真理はない。 そもそも真理に絶対はない。 なぜなら真理を表現しようとする者が絶対ではないから。 その教えがいかに素晴らしくても、教えるのは何者かを見ること。 神仏の道具で赤子を殴ることもできるのだから。 そしてそれは、道具の本質を理解していないということになる。
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環境を変えても自分は変わらない。
環境を変えても自分は変わらない。 それはまるで、遊牧民の羊のように草を食べ尽くすことを繰り返しているに過ぎない。 そのたび新たに生まれ変わった気持ちになるが、やっていることは変わらない。 そこにある見落としに気づかない。
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減点法は、高い理想があってはじめて作用する。
減点法は、高い理想があってはじめて作用する。 理想もなく、他者のせいにばかりして、自分も愛せない人が、減点法をしがちだが、それは誤り。 正しくは、加点法。 日々を感謝し、自己都合に良いものだけでなく、全ては学びのために来るのだと感謝すること。 全てが加点となって、はじめて人生のほんとうの点数が見えて来る。 さらに、全てを加点としようとするとき、反省と修正と見直しをかけられる。
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世界は、もやっとしているもの。
世界は、もやっとしているもの。 とらえきれない。 そこに想いを浸透させるしかない。 たえず変化している、変化しづらいところもある。 自分のためだけに生きたい人が、それを、はっきりさせたがる。 良い想いは世界の実相を愛するがゆえ、もやっとするものです。 悪ち想いは世界の実相を拒み自我を切り離して正当化したいがゆえ、それをゆるせないものです。
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切り出したままの大木のように質実かつ素朴であれば、いかようにでも自分を活かせる。
切り出したままの大木のように質実かつ素朴であれば、いかようにでも自分を活かせる。
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失敗や損失は常にある。
失敗や損失は常にある。 それを嫌ったり拒んだりすれば、人生は動かない。 つまり人生を失い、損なう。 生かされているこの人生の感謝がない。 それがほんとうの損失。