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大きな否定は、単なる拒絶でしかない。

大きな否定は、単なる拒絶でしかない。 小さな肯定と否定を細かくつけていくことは、良識ある分別となる。 そして大きな肯定にも分別はない。 それはいざというとき通じず、大きな否定へ反転する。 大きな愛は、否定も肯定も受容し、現実を繊細に見つめ、無視をしない。 これをしないことが、実は愛への大きな否定である。 ゆえに大きな肯定はいつでも大きな拒否となりうる。




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世界を助ける時に、助ける人を選ばない。

世界を助ける時に、助ける人を選ばない。 人を選ぶのは、それを手中におさめて支配したい我欲でしかない。 選んだものしか助けられない、手に余る、と言えば真実のように聞こえるが、実はごまかしである。 なぜならば、世界を助けるものを生み出せば、あとは人々がそれにより各自をお互いに助け合う流れとなるからだ。 それはフリーミアムなのだ。


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最大の敵やライバルは自分自身と言うことの裏は、つまり目前の敵やライバルも自分自身の片割れである。

最大の敵やライバルは自分自身と言うことの裏は、つまり目前の敵やライバルも自分自身の片割れである。 共に同じ課題を抱えて、立ち向かうのだが、ここに一つ見失っている点がある。 立場が違えば正反対の敵に見えるのだろうが、それは視点の左右が反転しているに過ぎない。 それは、同じ課題を抱えるなら、助け合うのが本来である。 それは学び合うか、学びを分かち合うかすることである。 そのためには相手に課題を見たなら、相手をなんとかするのではなく、まず自分がその課題について最善を尽くすことであり、それを見た相手が学び、分かち合いを受け取ることを待つのである。 人は成長して変化する、これを信じないものが、問題と敵対する。 だが子供を見れば、成長と変化は信じられるとわかる。 忘れているだけだ。 しかしそれは、憧れでも、依存でも、盲信でもない。 だから子供は純粋に学ぶ一方で、疑問はすぐさま口にする。 それを潰すのはいつも、それを忘れた大人なのだ。 世の先生様、大御所様、親分様、奢れる経験者、歳食い物たちは、これを悔い改めるべし。 師に会わば師を殺せ、それは鏡を見て、自分がなんらかの師ならば、その己を殺して、初心を生きよう。




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偏った被害者の意識は、自身の反省と成長を生まない。

偏った被害者の意識は、自身の反省と成長を生まない。 あらゆる国、家系に未熟さや問題がある。 指摘したところで、自覚をして自ら取り組まなければ、それは解決されない。 外の世界や他者に向かって戦っても真の解決はない。 その安易な逃げ道に、信奉者や巻き添えを生み出すことは容易だが、良心がそれを為し難くしている。 それを成す者の言動に近づくなかれ。


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自分にできないことを人がしてくれる。

自分にできないことを人がしてくれる。 自分にできることは他人も出来るというのは間違い。 あるいは自分にできないことを人にさせることを嫌えば、人を自分のために使う道具としか見ない。 させるのではなく、相談して頼んで、その人が活かされてゆく姿を見て喜ぶことに真実がある。




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すべては縁あってのことだが、それをするかは個人の分別にかかっている。

すべては縁あってのことだが、それをするかは個人の分別にかかっている。 その分別は、すべての縁への偏りない姿勢、たとえば感謝と赦しと受容がもたらす。 適切な分別は良心から、良心は姿勢を正してゆく謙虚さと誠実さと、そこから来る学びから。