見返り、報酬、自分の都合、それだけを行動の良し悪しの基準にする者は、良い基準を持つことができない。
良心が隠れきった状態にある。
それは世界を正しく見れない、論理性のなさをもたらす。
なぜなら、闇のなか何も見えず、自己都合の身勝手な解釈と、邪推しかないから。
目の前のものが見えなければ、物が聞こえなければ、それを正確に受け取ることは不可能。
そこから論理性の欠落が生まれる。
説得されても、それを検証するものが手元にない。
わずかに隙間をこじあけて世界を見せて検証させても、すぐさま閉じてしまい、元に戻る。
そこはこちらの良心と誠実さで接し続けるしかない。
その肌感覚だけが頼り。
それさえ絶えてしまえば、目に見えない何かにしか、もう何もできない。
それでも思いやること、気持ちを送ること。
遠くの太陽の熱で地表の氷を溶かすことはできるように。
気が遠くなるとしても、やること。
そして、それこそが、全てを生かしている。
自我をいつか溶かして焼き尽くす力にもなってゆく。
一人一人が太陽のように愛すること、それこそ見返りも報酬もなく。
だがそれができる者は、目開きの者たちに助けられてゆくだろう。
見返りや報酬は期待せずとも、やってくる。
そしてさらにそれを土台に、努めることとなる。
そこに発展が生まれてゆく。