間違った比較は、間違った理解や判断につながる。
ほとんどの人が、間違った比較をしている。
まず、正しい比較をしているか、自問自答すること。
その比較の目的、方法、材料、その他もろもろ。
比較対象に失敗や過ちを含めても、比較はできない。
なぜならどんなことにも失敗や過ちはある。
そこから学ぶしかない。
そして比較にすら必ず失敗や過ちがある。
それは失敗や過ちを比較対象にすること。
比較することよりも、失敗や過ちから学ぶこと。
過去を責めたり恨むのではなく、今を最前で生きようとすること。
成長すること。
その間違った比較を手放すことで、今ある幸せに気づく。
比較しても幸せには気づけない、なぜなら幸せは比較しないときにだけ得られるものだから。
比較は不満からしか生まれないから。
幸せを忘れなければできない行為だから。
それなのに比較で幸せをつかもうとする人は、まず人生の責任や評価を、他者においている。
それが比較を生む。
その比較の世界でしか幸せを探すしかなくなる。
そして探しても見つからず、終わりなき無限の悪心で、他者を責めて、世界を怖がり、勇気の一つも出せない。
だから失敗も間違いもできず、新たな道の取り組みもできず、成長できない。
その根源は自他を分断させる自我にある。
自分のことだけ考えているから、周囲の力に気づけない。
そして自分以外を、自分の都合に良いか悪いかの、敵か味方でしか見ない。
養分を拒み、閉じこもる殻を好む、種子のようなもの。
成長は幸せのひとつ。
成長をとめてはならない。
比較は成長を生まない。
一時的には強くなれても、それは力の比較でしかない。
力を弱めたところに生きる道が転がっていることなど、しょっちゅうある。
だが力を夢見て、周囲を殺して行く。
その先にあるものに手が届かない。
そんな箱庭の先にあるのが成長。
それは個々の力にとどまらないこと。
殻を破り、間違いから卒業すること。
それを終わらせ、平安をもたらすこと。