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高説が功するまで時間がかかるのは、それが実践的に功がないからである。

高説が功するまで時間がかかるのは、それが実践的に功がないからである。
論が正しくても、まわりくどいのでは意味がない。
素直に正直にまず肝心要を大切にする、目先の命の現実をまず愚直に生きる、働き稼ぎ食べて片付ける、そのことに感謝する、先祖に感謝する。
難解な言葉ではなく、わかりやすい当たり前の行動に功がある。
そのうえの高説には律する凛としたものがある。
そこに愛想も軟弱さもない、背筋を伸ばし汗水を垂らして生き切る姿がある。
生きるか死ぬかの今しかない、目先の欲で良い。
そこに懸命でなければ、他にも懸命にはなれない。
なぜならそれは生きることの命のほとばしりだから。
そしてそれがあってこそ、高説の紙面に火がつき燃える。
その火が筆なら墨がつき伝わる。
自分に実践の功がなければ、他に功を伝えることもできない。

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