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恵まれる者が、羨み、憧れて、恋い焦がれることについて書いてみる。

恵まれる者が、羨み、憧れて、恋い焦がれることについて書いてみる。
まず、恵まれる中、感謝を知る者と知らない者がいる。
正しくは、知っていても忘れていく。
恵まれる中でもさらに優遇され優先され讃えられる者は、全ては自分の力だと思え、いっそう感謝を忘れる。
それがおかしいと自分では気づいている。
なぜみんな感謝できる?
なぜ自分にはそれが湧かない?
みんながうらやましい。
素直に感謝できることを羨み、憧れ、恋い焦がれ、懐かしむ。
かつては自分にあった、平安の心。
それは母性の懐。
そしていつも同じ疑問がある。
なぜ自分は恵まれ、なぜさらに自分だけその中でも優遇され優先され讃えられるのか?
それはその立場にいるからにすぎない。
まずは先祖の努力の結果を土台にした自分の立場。
それから自分の特性、性格や性質として生まれたという立場。
どちらも今の自分の力ではない。
恵まれた富と裕福さの裏にある不自然さ、異常さ、それも一緒に受け取る。
それを受け取り、そこから目を覚ます。
そのあとに出てくる答えは、感謝すること。
そして、勤め上げること。
勤め上げることから逃れられる富や裕福さを求めるとき、人は道を踏み外す。
勤め上げた結果として、生きるための勤めから逃れられる力を得られたら、やはり踏み外す。
踏み外すとは、生き抜く糧に繋がらない勤め上げに没頭しても気づけなくなること。
そこには果てしない欲望の、不満という苦しみと、失うことへの恐怖がある。
それが押し寄せてもなお、はねのけ、道を踏み外さず、感謝できること。
まだ物心つかない子供の時のように、素朴で純真なとき。
素直な感謝。
恵まれていてもいなくても、人はそこを結局は求める。
目先の生かされている事実すべてに、感謝を実践を具体的にすることは、最後の最後で逆転して、そこへと戻ってこれる命綱となる。
踏み外さずにいれるし、踏み外してしまったとしても命綱はつながっている、生きている限り。

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