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ひとつの視点では問題を理解できない。

ひとつの視点では問題を理解できない。
なぜなら人は自分が正しいと思うから。

ふたつの視点では原因を理解できない。
なぜなら自分は正しいと思っている人しか相手にできないから。

みっつの視点では真実を理解できない。
なぜならふたつのうちどちらか正しいと思えるほうの味方にならければならないから。

よっつの視点では共通点を理解できない。
なぜなら派閥ができあがるから。

いつつの視点では個人を理解できない。
なぜなら異なる派閥という規模感が個人を見失わせるから。

より多くの視点では個性を理解できない。
なぜなら派閥を統一しようという支配により個人の理解力を奪うから。

問題などはじめからない。
同じものなどなにひとつない。
つまり答えなどない。
お手本もない。
事実だけが横たわる。
過去は過去であり、再現はされないこと。
未来は空白であり、最適解はないこと。
どちらも手放さなければ、今ある奇跡を見失うこと。
これら事実に反することは、理にかなわないこと。
これが人に、問題を生み続けさせ、その人を答えやお手本を求め続ける鬼とさせる。

そもそもの問題は、自分に問題はなく、外に問題があるとするところにある。あるいは自分の味方に問題はなく、それ以外にあるのだと。

まず自分の問題を片付けること。

さて、自分の問題とは?

人は誰しもが、恵まれたい富み栄えたいと願う。だがおおむね結果はこのように述べたことになる。

いつかきっとの富を願う限り、本当に富むことはない。本当の富とは今を失わず、今ここに共にある存在に気づくことにある。
この世界は様々な物事が空間を満たしており、十分に恵まれていて、富み栄えている。

生老病死をどのような形にするかは、この事実に対する態度で決まる。

過去に時間をかけて積まれた物事が今を作り出した。それらが変わるには時間がかかる。

だから今を気づき感謝して、かつ手放すこと。時間をかけて生きること。

今これからもやはり時間をかけて積むこと。

全て感謝し手放して、しかし忘れず。

今が永遠に続くことはなく儚いということを忘れてはならない。それが生きる者にとっての当然の事実。

こうした問題が自分にあると気づかないことか問題である。

このことに気づくと、問題は最速で解決されてゆく。

この問題を抱えているのは、相手も、自分もである。自分も、相手とである。まずは気づいたものから変わること。これを受け入れ変化しようと始めれば相手も感応してゆく。だから戦ってはならない。

相手に変わるべきところを見たら、自分が変わること。そのうえでもし相手に変わるべきところを見たら、やはり自分が変わること。

だがそうしてお互いを思いやっても、その場の共通の行いが世界への思いやりでなければ、通じない。通じないのに続ければ、それは思いやりの気持ちを大切にする良心につけこまれ、やがて執着に変わる。

それはまるで、現状の不満から戦いを選んだ者が、それを苦しみながらも支える周囲に対して、現状に満足せよと説くようなもの。言動が一致しない。

こうしてあらゆることを消去してゆくと、たったひとつの真実がのこる。そこを出発点として、あらゆる形が説かれる。そうしてまた視点が増えてゆく。そして出発点を見失えば、また問題となる。

たったひとつの真実を忘れないこと。それは生かされている事実を忘れず、感謝すること。

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