物事の実相や例外を認めないような狭い了見は、奴隷を生み出して抱えるのには好都合。
それしか信じるものがないように狭めることをいう。
そこに正しさは微塵もない。
本人が抱える問題の正当化にすぎない。
それはただひたすらに、自我である。
そしてそこからの我欲である。
無欲をうったえる者ほど、我欲にまみれている。
ほんとに無欲なら、実現できているのだから、わざわざうったえる必要はない。
他者に無欲を教えるのはいいが、了見を狭めるのはすでに無欲ではない。
他者の人生の隷属を自我の支えとするための強欲に他ならない。
そして、どんな鏡を使ったところで、その自覚もできない。
そして、こうしたことをまず自分自身について省みること。
他者を裁こうとするなら、その時点で自分がこうしたことに染まろうとしている。
他者をぞんざいに扱いつつ、他者の正誤善悪を気にするほど、自我は大きくなる。
他者を敬い、自分の正誤善悪を省みるほど、自我は小さくなる。
ほんとうに自分のことを考えるなら、そこに自我はない。
そこには他者と自分との比較、つまり自分の心を失っての正誤善悪の勝ち負けといった、自我の焦げつきはない。
そして、これは自他共にお互い様のことであり、それぞれの自分事であるから、自分がまず努めること。
お互いに依存するとは、手を引き合い変化を無くすか、足を引き合い悪い方へ変化する。
組織的な集団として、これを行なう。
引き上げ合う間柄は、お互いが手放しで各自で勤めて、お互いが敬うことにある。
そして必要があれば手を取り、不要となればすぐにでも手放せる、そうしたお互いの自由がある。
それは多様性のなかでの接点である。
それを失わせる束縛ではない。