病名とは、善くする方法を知らず、その方法を知るために付けられる。
だが問題をむやみに増やして広げて、病名をつけたのでは、きりがない。
病名にこだわらず、まず向き合い、それでも困難であれば名付けるもの。
最も単純で最も大事なものほど最も偉大であり、最も忘れやすい。
それは神でもなんでもいい。
だから世界には単純に意味もわからない名前をつけられたものがある、忘れないために。
それによって都合の良し悪しの全てが起こり、生かされているのだから、まず生かされていることに分け隔てなく感謝すること。
都合の良し悪しの全てが、人を学ばせ成長させるのだから。
ゆえに神とは自分の内にあるともされる。
これが一番重要な鍵になる。
理屈で探し求めることは不可能からといって、軽んじてはいけない。
わからないものがあると知り、それを敬うために、その名前を使う。
すると病名とは、あるいは病そのものが、あってないような枝葉のものとわかる。
それでもなお現実的に人助けとして対処が必要があればと、病名として名付けられた。
そこまで困らず病名をむやみにつけてはならないし、病だと騒いでもならない。
むやみに病と騒いで病名を増やしてしまえば、一人の者がいくつも病を抱えていることになる。
実際、その全てを抱えているといっていい。
だが理屈で考えていけば、人は相対的になり、どちらかを選ぶことしかできなくなり、そうした現実を見落としてゆく。
都合の良い近道のために、自分の当てはまる病名だけを好むようになる。
そして、そもそも何を忘れているかを、気づけない。
まず分け隔てない感謝を忘れている。