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100好きなものは、あるか。

100好きなものは、あるか。 まずたいてい、好きな部分と嫌いな部分が混じっている。 自分の好き嫌いを自覚して、好きは伸ばして、嫌いは克服しよう。 好きが得意で、嫌いが苦手なら、自分を活かせるから、それで生きていける。 これが逆に、好きが苦手で、嫌いが得意なら、生きていくのは難しい。 だがそれは、誤解している。 好きで得意なことと、嫌いで苦手なことを、きちんと自覚しておらず、分けて考えられていない。 嫌いで苦手なことから逃げていれば、そうなる。 好きな料理でも、味付けに不足や未熟があれば、食べたくはならない。 そこで不足や未熟、つまり嫌いや苦手を克服する。 すると、どちらも自覚できて、分けて考えられる。 塩と砂糖の絶妙な使い分けもできる。 不要ではなく、必要だが、使い分けが必要。 そうした絶妙な料理は、嫌いなことも必要だったとわかり、絶妙であれば好きだったとわかり、嫌いも好きに変える。 その本来の魅力と価値に気づいて知る、つまり得意になる。 かつそれが好きになる。 何よりそれは人に認められる。 認められると人はそれが好きになる。 そして、自分では嫌いだと思っているその仕事を、他者は羨ましがることもある。 他者にはないものを、自分は持っている。 その価値を落とさないようにするのが、自分の活かしどころであり、そのための勉強のしどころになる。 つまり、人が好きで得意になれるものには、2つある。 1つは、消費者として好きなもの。 あと1つは、与える側として好きなもの。



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相手が何かを言うとき、その言葉に意味はない。

相手が何かを言うとき、その言葉に意味はない。 何故それを言ったかに、意味がある。 だから返答するときは、その意味に返答しなければならない。 さもないと相手はいつまでも、答えを得られない。 だが本来、その意味をあらわすのが言葉。 だから意味をあらわすために深く自己を見つめて考えない者の言葉は、いつも意味がなく、意味を隠している。 本人が伝えたい意味が伝わらず、理解されない。思いやりも受けられない、と間違って受け取る。 だが周囲は理解しようと、思いやろうと、している。 それは隠された言葉の意味を探ろうとしなくても、態度や行動を見ればわかる。 だがそれもまた、自分と他人をどちらも理解しようとしなければ、やはりできない。 現実から逃げる限り、それはできない。 これはいつの時代も変わらない。 現実とは、誰もが本心を生きなくてはならないこと。 本心とは、自分の都合や見栄や良し悪しといった自我のことではない。 生かされていることに感謝すること。 すべては与えられ、経験され、乗り越えること。 生きていればこそのこと。 乗り越えるべき山は外ではなく、そこに言い訳を見つけて避けて逃げる自我、そんな自分の内にある。 これも生きていればこそ。 外の山は人によって苦楽が違う。 だが内の山は誰にとっても等身大の自分、違いはない。





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個人の責任と考えると、その人は反省せず、他者のせいにするし、指摘されても反抗する。

個人の責任と考えると、その人は反省せず、他者のせいにするし、指摘されても反抗する。 全体の責任と考えると、自分がどう変われば良いかと、自分事として考え始め、指摘されたことを客観的かつ具体的に反省し、成長する。