良い夢を見れば正夢かと喜ぶ。 または、まぼろしだったと落胆して悲しむ。 あるいは、夢の中だけでも得た平安を今ここで無条件に感じてみる。 悪い夢を見れば目覚めて安堵し平安に帰る。 どんな夢も過ぎ去り、そこには平安を残す。 現実も同じ。 いつでも平安は共にあるはず、何をしていても。 その平安を忘れないこと。 良い夢と悪い夢に共通し、その間にある真ん中の道に、平安がある。
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組織の所業は判別しなくて良い。
組織の所業は判別しなくて良い。 その起こり、はじめの理念、その原点を判別すれば良い。 組織になればそこが歪み、にごり、いずれ反転する。 なぜなら原点はみな善意であり、組織になるほど我欲を利用して集めることとなり、その善意は反転するからだ。 物事を判別するときは常にそこを忘れないこと。 そこを忘れて組織を判別する者は、いかにその言葉が正義をうったえても、そこにはそれに見合う実体がない。 似た者同士で獲物を奪い合うにすぎない。
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自分の善悪で裁く限り、それは善にはならない。
自分の善悪で裁く限り、それは善にはならない。 我欲であり、通じないから。
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期待しても叶わないから、やりたくない。
期待しても叶わないから、やりたくない。 そんなときこそ、そんな自我を焼き尽くすために、最善の実践あるのみ。
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練習や勉強などない。
練習や勉強などない。 いついかなるときも本番。 いつ死ぬかもわからない命。 いつか、は存在しない。 ただ今にすべて存在する。 離れていても愛し、抱擁するように、かつ捕らえることもなく。 その想いの呼吸ひとつひとつが、世界を繋げる空気を癒して浄化、転化するかのように、または流れに乗るかのように。 その空気が全てをも 時を超えて繋げ合う媒体であるかのように。 ただしこれが期待であってはならない。 その瞬間にただ感謝すること。
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最後までやりきるとは、滅びの前で止めることも試される。
最後までやりきるとは、滅びの前で止めることも試される。 そこは愛と執着との境目、命がけと命知らずの境目。
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何事も共有できないものは意味がない。
何事も共有できないものは意味がない。 情感、情景、郷愁、これらも孤独であれば意味がない。 それらを越えたところにある全てに通じるものに心を注ぐと、それら全てをも作り出し、また消してもゆく、不変かつ普遍のものに通じる。 そこから全てに感謝をたむけること。 それは悠久の、原始からの繋がり、つまりは生かされていること。 生かされているとは、単にその命だけを見ての低確率のなか生まれた希少さや、単に保たれていることではなく、そこまでの繋がりを紡いだ無数の想いと奇跡にある。
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敵対して批判して潰すことに知恵と心を使うな。
敵対して批判して潰すことに知恵と心を使うな。 赦して善転させるために知恵と心を使え。 心のなかで世界を分断して孤立せずに、融和させよ。 そのとき悪いことは水と油のように、衣服の汚れのように、洗われて別れて行き、本体のみが残る。 悪いことをそのままにすることはなく、善処はすべき。 しかしそれもまた理由あって生じていることを忘れないこと。 そして本体は別で、そのなかに隠れていることも忘れないこと。
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悪いことは赦したい。
悪いことは赦したい。 良いことは覚えておきたい。 それは自分自身を良いことで染めてあげたいという愛から。 悪いことばかり覚えていれば、良いことは忘れてゆく。 それは赦さない心が、見境をなくすこと。
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身の内に不幸ご起こってから気づいても遅い。
身の内に不幸ご起こってから気づいても遅い。 他者の教訓を参考にすること。 気づかない者はそもそも自分に置き換えられない。 身の内に置き換えるとよい。
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仕事を作り与えるのは、任せることから。
仕事を作り与えるのは、任せることから。
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近縁の者、遠縁の者、それぞれ自分への見方は異なる。
近縁の者、遠縁の者、それぞれ自分への見方は異なる。 あらゆる視点を受け入れる心が、自分の内省につながる。
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見えないものを土台に見えるものに取り組めば、狭さや偏りを取り払う。
見えないものを土台に見えるものに取り組めば、狭さや偏りを取り払う。 見えるものを土台に見えないものに取り組めば、狭さや偏りを作り出す。 見える見えないの両方が大事。
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物事の実相や例外を認めないような狭い了見は、奴隷を生み出して抱えるのには好都合。
物事の実相や例外を認めないような狭い了見は、奴隷を生み出して抱えるのには好都合。 それしか信じるものがないように狭めることをいう。 そこに正しさは微塵もない。 本人が抱える問題の正当化にすぎない。 それはただひたすらに、自我である。 そしてそこからの我欲である。 無欲をうったえる者ほど、我欲にまみれている。 ほんとに無欲なら、実現できているのだから、わざわざうったえる必要はない。 他者に無欲を教えるのはいいが、了見を狭めるのはすでに無欲ではない。 他者の人生の隷属を自我の支えとするための強欲に他ならない。 そして、どんな鏡を使ったところで、その自覚もできない。 そして、こうしたことをまず自分自身について省みること。 他者を裁こうとするなら、その時点で自分がこうしたことに染まろうとしている。 他者をぞんざいに扱いつつ、他者の正誤善悪を気にするほど、自我は大きくなる。 他者を敬い、自分の正誤善悪を省みるほど、自我は小さくなる。 ほんとうに自分のことを考えるなら、そこに自我はない。 そこには他者と自分との比較、つまり自分の心を失っての正誤善悪の勝ち負けといった、自我の焦げつきはない。 そして、これは自他共にお互い様のことであり、それぞれの自分事であるから、自分がまず努めること。 お互いに依存するとは、手を引き合い変化を無くすか、足を引き合い悪い方へ変化する。 組織的な集団として、これを行なう。 引き上げ合う間柄は、お互いが手放しで各自で勤めて、お互いが敬うことにある。 そして必要があれば手を取り、不要となればすぐにでも手放せる、そうしたお互いの自由がある。 それは多様性のなかでの接点である。 それを失わせる束縛ではない。
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人の過去を責めても、過去は変わらない。
人の過去を責めても、過去は変わらない。 人は学び、変わる。 自分が学び変わらなければ、周囲の変化の歯車を止める。 どんな変化をしたいのか、それを良心で舵取りすること。 人はお互い様。 誰かを許せないなら、自分をまず省みて許すこと。 愛すること。 相手のことが苦しいのは、許さず愛さず、完璧を求めるから。 自分を許して愛して、その心で相手を許して愛すること。 その真逆をしてあゆみを止めるような時間の浪費は人生を無駄にする。